手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

「教科書検定は機能しているか」【手奇塾】南京事件 小学生の教科書にも南京事件が載っている!


「教科書検定は機能しているか」【手奇塾】南京事件 小学生の教科書にも南京事件が載っている!

当時南京市内には、日本から多くの新聞記者やカメラマンがいて記事を書いて送っていた。

同盟通信の前田雄二氏の著書「戦争の流れの中に」には次のようにあります。

「14日は、各門から入ってきた、同盟の記者、カメラ、無電が次々と入ってきた。記者の大鋸時生、樋口健吉、小坂武司、加藤松、深沢幹三、写真の稲津幹二、無電の菊池久太郎、それに古賀、手島、中村などの連絡員で、臨時支局は、33名と膨れ上がった。他社は10名から15名ていどだったので一台陣容となったのだが、これがかえって裏目に出た。日中は記者もカメラマンも取材に出歩いていたので問題は、なかったのだが、夕刻皆が返ってくると野戦支局は人間でいっぱいになった。また次のようにも書かれています。占領後、難民区内で大規模の略奪、暴行、放火があったという外電が流れた。これを知って、私たちは、キツネにつままれたような思いをした。というのは、難民区は入場早々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入場式のころから難民区でも区外でも商店が店を開け始め、同盟班も18日には難民区内にあった旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである。難民区内での日本兵の乱暴狼藉説が上海から伝えられたのは、その直後のことだったのだ。すなわち、私たちが以前の活気を取り戻した難民区内の支局で、平和な日常生活を始めた矢先のことである。私たちは顔を見合わせた。新井も、堀川も中村あつおも、市内をマメに回っている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、14日には終わっていたのだ。もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目にはいらぬはずはなかった。