手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

【手奇塾】満洲事変を一番喜んだのは満洲人300万人


【手奇塾】「満洲事変 一番喜んだのは満州人300万人」

みなさんは、満州という国がかつてあったことを学校で習いましたか。

蒋介石は、一度も満洲に足を踏み入れたことはなく、言葉も通じなかったのです。満洲を支配する張学良の軍隊が消滅して、その支配権は、300万人の満洲人に戻り、清朝の最後の皇帝溥儀を元首に、故郷で独立宣言したにすぎません。清朝から独立した孫文漢民族はよくて、満洲人は独立してはいけないのでしょうか?

満州とは、清帝国を建国した満州人(女真ジュシェン族、後に満洲マンジュ族と改める)の故郷の地です。満洲は、満州人の神聖な土地で、清の時代は、厳しい移民法令を定めて、漢民族満州への立ち入りを禁止しました。立ち入ると死刑でした。さらに満州人と漢人の婚姻を禁止し、最後の皇帝が退位する数年前までこの禁制は続いていました。しかし、ユウーチューブの動画や教科書、マスコミは、満州国は、日本の傀儡国家だとか、満州事変は関東軍の暴走だったといっています。これは中国のいっていることと全く同じです。満州事変後の満州建国を一番喜んだのが満州人と言われています。自分たちの国ができたのです。これはイスラエルがやはり自分たちの国ができたことを喜んだのと一緒です。日本が後押しして建国をし、バチカン他20カ国に承認された国家でした。しかし、満州人の運命は悲惨でした。中国の占領後、チベットウイグル内モンゴル同様、満州語を禁止され、同化政策によりもはや満州語を話せる満州人は、今は一人もいないといわれています。これを民を洗うと書いて中国語で洗民と言います。

 今回は、誤解されています、満州事変について2回に分けて詳しくお話しします。前編はなぜ満州事変が起きたのかです。後編は満州国の発展と滅亡です。

 今の中国は、満州を東北地方と言っています。これは外務省のホームページで中国の反日記念日です。この中に9月18日満州事変(柳条湖事件)があります。もともと中国の土地で起こった事件ではないのですが、満州国を滅ぼし、自国領にしたものですから満州事変を反日記念日にしているのです。もちろん12月13日の「南京大虐殺」なんてありえない歴史の改竄です。韓国同様中国共産党反日が国是です。

 中国は、辛亥革命が起こり、孫文が指導者ということになりました。清朝の最後の皇帝溥儀は、協定を結んでから退位しました。協定とは、故郷である満州を西洋でいう「王領」、つまり「封禁の地」とし、そうした清国の権利を明記し、確認した退位協定が中国の根本法となったのです。しかし、中国人は、この協定を守りませんでした。国際仲裁裁判所の決定を紙屑という人たちです。

つまり協定を守ると満州人の満州支配を認めることになります。辛亥革命のときの漢人による満州人の虐殺行為は、1週間続いたといわれています。

 学び舎にはなぜか「満州事変」の見出しではなく「満鉄の線路を爆破」の見出しになっています。大見出しは、「鉄道爆破から始まった、日本の中国侵略」です。小見出しも「満鉄の線路を爆破」と「国際連盟からの脱退」で、2ページの記述です。満州と中国の国境線はなく全部中国の色に塗られています。つまり学び舎は、満州は、中国の領土だといっています。

これに対し自由社は、きちんと国境線を引き、「中国の排日運動と協調外交の挫折」、そして「満州事変と満州国建国」の大見出しで4ページにわたって記述しています。

学び舎は、231ページ側注で「多くはこのように現地農民の土地を買収したり、土地から追い出したりして、日本人を入植させるものだった。」と記述しています。これを読むと満州の土地は中国人のもので、それを日本が奪ったということになります。いままでのお話でそうではないことはお分かりになると思います。

自由社228Pは次のように記述しています。「日本が年号を昭和と改めたころ、中国では、各地に私兵をかかえた軍閥が群雄割拠していた。」1925年ころです。満州もそうでした。匪賊の頭領のような人物、張作霖が日本の後押しで軍閥の親分になっていました。
また、229Pでは「昭和初期の満州にはすでに20万人以上の日本人が住んでいました。その保護と、関東州および満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた」と記述しています。関東州とは、遼東半島の南部で満州ではありません。日清戦争で清から割譲を受けた大連港、旅順港などの軍港があります。三国干渉で一度清国に返しますが、ロシアが進出し、旅順に要塞を築きます。日露戦争後今度は、日本が清から租借した土地です。日露戦争の時、清は、ロシアと同盟を秘密裏に結んでいましたが、日本側は知りませんでした。敵国ですから戦後清に賠償金を求めてもよかったのです。

満州だけではありません。当時すでにアメリカにもハワイにもブラジルにも多くの日本人が移住していました。

人口構成が圧倒的に支那人が多くなるとその土地の支配権は支那人に移ります。満州も同じでした。今の北海道のいくつかの土地がそうです。カナダやオーストラリアもそうではないでしょうか。

しかし、もともと満州は、満州人以外は立ち入を禁止されていた神聖な土地だったのです。

清朝が安定していた時代は、漢人も入れず、満州の地も平和でした。しかし清朝が衰え、ロシアが南下してくると治安は乱れます。もともと満州人にやとわれた小作人として働いていた漢人が、土地を奪うようになります。満州にロシア人のほかに漢人の難民や匪賊も流れ込んできます。日露戦争後、山東出身の匪賊の頭領のような人物が、日本を後ろ盾に満州をしだいに支配するようになります。張作霖です。私兵を雇い、逆らうものは見せしめに皆殺しです。前にお話ししましたが、辛亥革命のときの漢人による満州人の虐殺行為は、1週間続いたといわれています。このときの恐怖を知っている満州人は、張作霖から、どんな重税を課せられてもにさからうことはできなかったのです。長親子は、70憶ドルもの金の準備がない不換紙幣を発行し、住民から生産物を取り上げ、阿片の栽培と売買で軍隊を養っていました。長親子と満鉄は、互いに利用しあう関係になります。

 このような記述は教科書にはありません。中国がいやがるからでしようか?それとも文科省が忖度しているのでしょうか?そうあの近隣諸国条項です。

昭和2年ころは北京に進出した張作霖蒋介石は敵対関係にありました。このような中、日本軍から勧告されて張作霖満州への帰途列車ごと爆殺されます。どの教科書も日本の関東軍の仕業ということになっています。ソ連崩壊後に公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の工作であったと書かれているそうです。コミンテルンにとって張作霖は邪魔だったのでしょうか?張作霖と対立していた蒋介石は、息子をソ連に人質同然に差し出していました。張作霖は、日本に恩義があります。

ソ連から見れば張作霖よりも蒋介石が扱いやすかったのでしょうか。
 そして1930年に息子の張学良が、北京に進撃して首都とし、南京の蒋介石政権と支邦を名目上2分しました。外国の列強に対しては南京の蒋介石政権を承認政府としましたが、満洲蒋介石政権の支配下に入ったことはありません。張学良は蒋介石の部下ではなく、同等の、支邦を二分する片方の支配者でした。蒋介石は一度も満洲に足を踏み入れたことはなく、言葉も通じなかったのです。英国、米国、ソ連反日活動は、満州で拡大していきます。これら排日運動は、プロテスタントの宣教師達や蒋介石の米国顧問団、米国広告会社が裏で動いていました。日本とJPモルガン商会との南満鉄外債起債交渉は、つぶされてしまいます。蒋介石と対立していた張学良もやがて蒋介石に近づいていきます。いつまでも対立していると父親のようにいつソ連に排除されるかわかりません。満州の安全保障がいよいよ脅かされる状況になってきました。日本も同じです。関東軍は、張学良はソ連と通じているのではと不信感を抱きます。満鉄の列車妨害や日本人へのテロが頻発しますが、日本の外務大臣幣原喜重郎「中国の民族感情にも同情をもってする」と親中外交で、中国の排日運動は収まらなかった。2012年9月の尖閣列島国有化に反対したデモが暴徒化し、日系のスーパー、商店、車が次々襲われました。あれよりも残酷です。

1931年関東軍は、満州の現状を一気に改善しようと張学良の軍隊を追い払います。張学良の軍は15万とも20万ともいわれていましたが各地に分散していましたので、動きの速い関東軍と朝鮮から越境した日本軍、わずか1万4千に各個撃破されてしまいます。これをよろこんだのは満州人でした。満州国が建国されます。満洲国は、満洲語を話す民族300万人が、長親子の軍閥支配から独立して建国した国です。もちろん日本が後押しをしました。自由社230ページの側注にあるように、「1939年の時点で満洲国は、ドイツ、イタリア、スペイン、バチカンなど約20か国から承認されていた。」のです。