手奇塾のブログ

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「キャンセルされた歴史を取り戻す」安全保障 日清・日露&支那事変・大東亜戦争

 

nico.ms

 今回は「キャンセルされた歴史を取り戻す」わが国の安全保障です。第一次戦の前は、ドイツが世界の敵になりました。第二次戦の前は、日本が世界の敵になりました。第三次戦はソ連との冷戦という見方もあります。それでは第四次戦は、中国が世界の敵になるのでしょうか。今のところはそうなっていくように見えます。それでは日清戦争から大東亜戦争まで、戦争に至る国際情勢を見ていきます。

 明治維新後日本は、条約改正や国境の画定など、外国との外交交渉は、忙しかったはずです。周囲は欧米の植民地でした。国内産業保護育成で、できれば戦争などにお金を使いたくはなかったでしょう。日本軍は始めから強かったわけではなく、開戦の時でもわが国の兵力は、清国に比べこのように劣勢でした。この兵力差では、必ず勝てると言う自信はなかったでしょう。

明治15年、1882年、軍近代化に不満をもった、朝鮮の軍人が起こした反乱、壬午事変では、日本公使館が襲撃され、館員が殺害されました。2年後の改革派のクーデターの甲申事変では、クーデターを平定しに来た清国の軍隊と、公使館、領事館保護に派兵した日本側と戦闘になり、将兵と多くの在留邦人が犠牲になりました。この紛争で日本は、2度清国に負けているのです。

 朝鮮は、清のさくほう体制に入った属国で、朝鮮の問題は清の国内問題でした。日本は逆に、清の言いなりになる朝鮮では困るので、清から独立して欲しいわけです。過去元寇のように大陸の王朝と朝鮮が一緒になって、日本に攻め込んできたことがあるからです。学問のすすめを書いた福沢諭吉も、清や朝鮮も近代化をして、西洋列強に侵されない独立した国になることを望みました。

大国清だけではなく、東に向かってシベリア鉄道を建設するロシアの脅威も日本は感じていたのです。日本の安全保障上、朝鮮半島の自存自衛は日本にとって最も重要なことでした。豊臣秀吉の時代の明も、同じだったのかもしれません。清国は日本を見下して、一歩も譲りませんでした。日本は、欧米列強の極東での外交政策をにらみながら、仮想敵国となった清との戦争に備えたのです。

10年後、半島で大規模な宗教的農民一揆が起こり、清国は一揆を平定するために出兵、日本も公使館、在留邦人保護のため、軍隊を派遣しました。アジアに植民地を持っている欧米列強は、隙があれば介入してくるはずです。正に日本外交の正念場でした。日本がうかつに動けば、ロシアがスキを狙って北海道に攻め込むかもしれません。列強各国との腹のさぐり合い、日本側の必死の外交交渉の結果は、どちらも譲らず日清両国の戦争でした

 日露戦争では、ヨーロッパ諸国は、ロシアと戦うにはあまりにも日本は小国とみていました。ロシアは、この時日本の10倍の国家予算と軍事力を持っていました。ちなみに中国の数字は怪しいのですが、2020年の中国の名目GDPが、1570兆円。日本が538兆円ですから、日本の約3倍。日本はなんとか外交交渉で戦争を避けようと努力しました。元老の伊藤博文山県有朋も、初めはロシアと協調せざるを得ないとみていました

ロシアも、ヨーロッパやアフガン、黒海方面で、ドイツやイギリスと対峙していて、極東に大兵力を送って争いを起こすことは、望ましくないと考えていたかもしれません。 しかし、1900年、義和団の乱がおき、シベリア鉄道の支線で旅順まで行く、東清鉄道に大きな被害を受けたため、ロシアは、満州にも軍隊を派遣、駐留していました。

これに対し、日本、イギリス、アメリカなどはロシアに抗議しましたが、完全には撤退しませんでした。旅順には要塞ができ、満洲、朝鮮国境の朝鮮側にもロシアの軍事基地ができました。ここで元老の山県や桂首相・小村外相や陸海軍の首脳部は、戦争になることを覚悟しました。それでも戦争に負けた時のことを考えたのでしょう、元老の伊藤や井上馨は、ロシアに満州での一定の権益を認めるという、戦争回避論を主張しました。

 外交で日本は、だんだんとロシアに譲歩していきます。そして日本側は 1903年6月、御前会議を開き、ロシアとの外交交渉の条件を決めたのです。外交交渉の条件から満洲を外すとか、朝鮮の北部に中立地帯を設けるとか、なんとか戦争回避に必至となります。日英同盟があっても、軍備増強や猛訓練でも、勝つ自信は薄かったのでしょう。必死の外交交渉にもかかわらず、日本の指導者達は戦争に追い込まれていきます

最後まで戦争に反対だった伊藤博文は、日露開戦と決まった後は、つぎのような言葉を残しています。吾輩も国民軍に入り、自ら銃を肩にして海岸を守り、一歩たりともロシア人を日本の土地に上がらせない決心である。ここでも政治の先、つまり外交交渉の先は戦争でした。支那事変・大東亜戦争も必死の外交交渉の結果が、戦争ということではやはり同じでした。

 日本のお陰で満州は清に戻され、日本は清から改めて遼東半島の租借権を得ます。イギリスも租借地を得ていました。ロシアが極東から去り、支那大陸の鉄道利権の争いは整理されたのですが、今度は新たに米国が鉄道利権をめぐる争いに参加してきました。米国と国際連盟は、歩調を合わせて日本批難の宣伝を始めます。そして今度は、ソ連が極東に現れます。

ソ連は、孫文蒋介石と手を結びました。中国共産党支部として日本共産党も作られました。1921年ワシントン会議の間に、いつの間にか外蒙古を独立させて、共和国をつくってしまいました。ソ連は、支那を世界革命の踏み台として利用しようとしていたのです。後で蒋介石が気づいたときは、支那全土でソビエト共和国が密かに作られていました。蒋介石は必至に毛沢東共産軍を攻撃して、壊滅寸前まで追い込みました。

しかし、西安事件共産主義者の罠にはまり、抗日戦の準備をしかたなく始めます。戦争に向けて兵器廠、製鉄所、飛行機工場、軍需品の製造工場の計画が進められました。このとき支那が世界最大の武器市場になったのです。次第に支那大陸のプレイヤーは、日本、アメリカ、ソ連、担ぎ出された蒋介石と言うことになりました。

 満州事変、そして満州国建国と、欧米をあざやかに出しぬいた日本は、欧米諸国の嫉妬と恨みを買い、いつの間にか世界の敵となっていたのです。国家のていをなしていなかった蒋介石政府が、統一国家中華民国として国際連盟に加盟できたのも、共産主義ソ連が加盟できたのも、欧米列強の反日のための都合でした。欧州諸国の反日宣伝と外交は、満州人の満州国を認めず、米国と日本を対決させて、漁夫の利を得ることでした。

 米国民は、やがて対日戦争になるだろうと思い込まされ、日本への敵愾心を植え付けられ、かつて世界中が反ドイツに向かったのと同じ方法で、反日の世論が世界に形成されていきました。大陸から日本を追い出したい、欧米、そしてシナを革命政権にしたいソ連、米ソを利用して、日本を追い出したい蒋介石は、互いに利害が一致するようになっていきました。日本は満州事変後、欧米の日本批判に対して必死の外交努力をしました。

当時60に満たない独立国のうち、満州国を承認した国は、バチカンなど20か国にもなったのです。日米間で戦争が起これば、世界恐慌の問題や、第一次世界大戦の戦時国債の問題も解決し、米国が極東貿易を中止すれば、日本は身動きができなくなり、日本の満洲、東南アジアへの進出を食い止めることができる。そうなれば欧州は再びシナ大陸市場で優勢を確保できる。欧州の得られる利益は計り知れない。

 このような国際情勢の中で、日本は最後に、日露戦争で地を流した、満鉄の利権を放棄するまで譲歩しました。しかし、蒋介石との和平交渉は何度も潰されます。アメリカも、日本との貿易を段階的に制限していき、シナ大陸から撤兵し、汪兆銘政府ではなく、蒋介石政府を承認せよとまで言ってきたのです。ハルノートです。わが国は、エネルギーぶそくで工場の操業が止まり、大量の失業者が生まれ、その結果大勢の餓死者が出たでしょう。

もはや国際連盟を脱退しようと、我慢を重ねて連盟に残ろうと、欧米が望む戦争というゴールは変わらなかったでしょう。すでにこのとき欧米諸国は、日米戦争を前提として、外交政策を決めはじめていたのです。それでは現在はどうでしょうか。今各国は国際情勢を見ながら対中政策を決めているようです。中国は今後どうふるまうのでしょうか。それでは終わります。