手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

第2回 なかった戦時プロパガンダの南京事件

 

nico.ms

【手奇塾】敗戦後GHQによりキャンセルされた歴史教育を取り戻す。

「キャンセルされた歴史を取り戻す」シリースの動画は下記1.2.3.

1. Rumbleチャンネル:https://rumble.com/c/c-1017064

2. Vimeoチャンネル: なかった南京事件シリーズ https://vimeo.com/user145181550

3. ニコニコ動画: https://www.nicovideo.jp/user/17559649

 

youtubeチャンネル1:「大人の知らない教科書の違い」シリーズ

https://www.youtube.com/channel/UC0ykxG932FVl3OnbAxu0ZDg

youtubeチャンネル2:「自由社、東京書籍、学び舎、高校山川詳説日本史B」シリーズ

https://www.youtube.com/channel/UCicqVrHKjghYyKnn-6BmV2g/featured

 

みなさん、こんにちは。キャンセルされた歴史を取り戻す、第2回の授業は、なかった南京事件その2です。それでは実際の当時の南京市内の様子はどうだったのでしょうか。

本当に中国共産党政府が言うように、日本軍は市内で30万人もの中国人を違法に殺害したのであれば、中国人は市内には一人もいなくなっているはずです。当時の南京市内の中国人の人口は、南京防衛軍10万、市民20万人と言われていました。市民20万人の数字は、当時安全区が設けられ、そこを管理していた安全区委員会が20万人と言っていたからです。彼らは安全区内の人々の食糧を常に気にしていました。中国軍は、戦死、捕虜、退却でゼロとすれば、市内の安全区にいるのは、20万人の市民と考えられます。ところが日本軍占領後の市民の人口は20万人より逆に増えているのです。治安が安定し中国人が戻ってきたからです。これは、「南京の実相」にある「南京は微笑む」朝日新聞・昭和12年12月25日付の写真です。その後中国共産党政府は、南京周辺も含め100万人いたと数を増やしました。つじつまを合わせようとしたのでしょう。しかし、国民党軍が南京周辺の建物を日本軍が利用できないように全て焼き払ったと言われています。古来からのけんぺき清野作戦です。このため周囲の人々も南京市内の人々も南京から逃れ、残った人々は、国際法上、日本軍が攻撃しない安全区に避難したと考えられています。当時南京市内には、日本軍と一緒に移動した、多くの新聞記者やカメラマンがいて、記事を書いて送っていました。同盟通信の前田雄二氏もその一人でした。彼の著書「戦争の流れの中に」からの抜粋に次の部分があります。「14日は、各門から、同盟の記者、カメラ、無電が次々と入ってきた。記者のおがときお、樋口健吉、小坂たけし、加藤松、深沢幹三、写真のいなずみきじ、無電の菊池久太郎、それに古賀、手島、中村などの連絡員で、臨時支局は、33名と膨れ上がった。他社は10名から15名ていどだったので一台陣容となったのだが、これがかえって裏目に出た。日中は記者もカメラマンも取材に出歩いていたので問題はなかったのだが、夕刻皆が返ってくると野戦支局は人間でいっぱいになった。また次のようにも書かれています。占領後、難民区内で大規模の略奪、暴行、放火があったという外電が流れた。これを知って、私たちは、キツネにつままれたような思いをした。というのは、難民区は入場早々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入場式のころから難民区でも区外でも商店が店を開け始め、同盟班も18日には難民区内にあった旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである。難民区内での日本兵の乱暴狼藉説が上海から伝えられたのは、その直後のことだったのだ。すなわち、私たちが以前の活気を取り戻した難民区内の支局で、平和な日常生活を始めた矢先のことである。私たちは顔を見合わせた。新井も、堀川も中村あつおも、市内をマメに回っている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。

残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、14日には終わっていたのだ。もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目にはいらぬはずはなかった。中国政府が言う、30万人の大虐殺は、当時南京市内にいた百名もの報道陣の誰一人目撃していないのです。しかし、時がたち,3人の日本人記者が大虐殺を見たといいだしたのです。彼らが当時どこにいたのか記録がありましたので、直ぐにつじつまが合わないことが分かってしまいました。それではみなさん、さようなら。またおあいしましょう。