手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

「教科書検定は機能しているか」【手奇塾】 東条英機元首相や部下の樋口少将らの満州鉄道によるユダヤ人避難民救出

東京書籍の杉原千畝「命のビザ」は、生徒が誤解する表現ではないのか

今回は、東条英機元首相や部下の樋口少将らの満州鉄道によるユダヤ人避難民救出のお話です。

古い東京書籍の中学歴史教科書には、杉原千畝「命のビザは載っていませんでした。ところがマスコミが杉原千畝の功績をたたえるようになると、なぜか申し合わせたかのように教科書に載るようになったのです。東京書籍の命のビザには、次のように記述されています。第二次世界大戦のさなかの1940年7月、ポーランドユダヤ人が、ナチス・ドイツの迫害から逃れるため、ソ連と日本を通過してアメリカに渡ろうと、リトニアの日本領事館に押し寄せました。領事代理の杉原千畝は、ドイツと同盟関係にあった日本政府の意向を無視して、1か月余りにわたり、寸暇を惜しんでビザ(査証)を書き続け、約6000にんもの命を救いました。杉原の人道的な行為は、同様に多数のユダヤ人を救ったドイツ人実業家の、オスカーシンドラーと並んで国際的に高く評価されています。

 実はそれより2年前、1938年、昭和13年12月6日に、五相会議、今の閣議で、ユダヤ人対策要綱、通過査証つまりビザの発給や本邦滞留避難民への措置など,日本政府は、極東におけるユダヤ人避難民にどのように対応するか、方針をすでに定めていたのです。さらにその1年前、昭和12年12月、満州国ハルビンで第1回極東ユダヤ人大会が開催されたのです。もともとハルピンにはロシア革命から逃れてきた多くの白系ロシア人ユダヤ人が移住していたからです。

ユダヤ人対策綱領)

自由社の教科書は、237ページで次のように記述しています。日本はドイツと同盟を結びましたが、ユダヤ人の迫害には同調していませんでした。1938年(昭和13年)3月ソ連満州の国境にあるシベリア鉄道のオトポール駅に、ナチスドイツに迫害され、ビザを持たずに逃れてきた、ユダヤ人難民の一団が到着しました。当時日本はドイツと友好関係にありましたが、知らせを受けたハルピン特務機関長の樋口喜一郎少将は、日本の国是であった人種平等の理念から、これを人道問題として扱い、満鉄に依頼して救援列車を次々と出し、上海などに逃げる手助けをしました。ドイツは、外務省を通じて抗議してきましたが、関東軍参謀長の東条英機は、日本はドイツの属国ではないとして、部下である樋口の処置を認め、ドイツからの抗議をやり過ごしました。これによって1万1000にんのユダヤ人の命が救われました。この出来事は昭和13年3月ですから、五相会議でユダヤ人対策要綱が閣議決定される9か月も前の出来事です。ここで少し説明をしますと、ハルピン特務機関とは、将校、下士官を含め1千人以上の大きな組織で、いまでいう調査会社や宣伝会社を併せたような軍の組織と言ってもよいでしょう。樋口少将は、昭和12年12月、満州ハルビンで、先ほどのべました、第1回極東ユダヤ人大会を開催させました。おそらく実務は、部下のやすえ大佐がおこなっていたのではないでしょうか。

 杉原が、閣議決定から2年後に、多くのユダヤ人を救ったのは事実です。しかし、東京書籍の記述の問題点は、日本政府の意向を無視してという部分です。すでに2年前に日本政府のユダヤ人に対する方針は決定されていて、しかもそれ以前に東条英機、樋口少将らによるオトポール駅に非難してきたユダヤ人1万1千人救出の前例があるわけです。杉原は、日本政府の一定の基準を満たしているユダヤ人という方針に反し、全てのユダヤ人にビザを与えたことが、政府の意向を無視してという記述になったのでしょうか。しかし、これはあたかも当時の日本政府は、ドイツと同じようにユダヤ人を排斥し、ビザを発行しない方針であったかのように、意図的に生徒に誤解させる記述ではないでしょうか。繰り返しますが、それにしてもなぜ文科省は、東京書籍に検定意見を付けないのでしょう。 しかも、ネット上ではいまだに、外務省訓令を無視してビザを発給し続けた杉原は、戦後の1947年、外務省を辞めさせられている。外交官としての名誉回復は、実に44年後の1991年であったなどというウソがまかり通っています。外務省のホームぺージは、次のように説明しています。杉原が、勇気ある人道的行為を行った。そして杉原への懲戒処分はなく、カナウス領事館引き上げ後も7年間勤務し、その後、47年に依願退職している。これでウソが明らかになります。山下輝男氏のブログ、上海租界地での対応、大塚惟重これしげ海軍大佐を紹介します。上海にドイツ・オーストリアユダヤ人が流入したのは、ナチスオーストリアを合併した1938年秋であり、イタリア商船コンテ・ビオレ号から上海に上陸したのが最初である。当時、ユダヤ人が希望する米国等は、ビザ発給が制限されており、実態的には入国拒否に近かった。非人道的行為まであったという。そうした中で、入国ビザなしに上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。海軍大佐の犬塚惟重は、日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。彼は戦後「日ユ懇談会」の会長を務めた。日本政府の有田外相は、ハルピンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後ともユダヤ人を差別しない。他の外国人と同じに自由だ」と明言した。1939(昭和14)年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の「日本租界」にあふれるに至った。以上のことが歴史的事実であることは、ユダヤじんのラビ・M・トケイヤー氏が書いた、ユダヤ製国家日本でもあきらかです。翻訳は加瀬英明氏です。ここには、全世界がユダヤじんをみすてていた時、救いの手を差し伸べてくれたのは日本人だけだったとかかれています。68ページ、あのころの日本で、ユダヤ人は一人として、不当な差別をうけなかった。一行は日本につくと兵庫県庁から麦粉むぎこの特別配給を受けた。神戸からパレスチナ行きの船に乗ると、ふ頭に日本の男女が現れて手製のダビデの星、後のイスラエル国旗を振りながら、ヘブライ語ユダヤの歌を歌ったうえで、蛍の光を合唱した。船上のユダヤ人たちは、ヨーロッパと日本があまりにも違っていると思って全員がほおを涙で濡らしたと回想している。このように書かれています。東京書籍の記述がどんなに不正確で日本を貶めようとしているか、もう皆さんはわかりますね。樋口中将は、占守島の戦いや、アッツ島玉砕、キスカ撤退の総司令官でした。戦後、占守島の戦闘で大損害を出し、北海道を手に入れることができなかったソ連は、札幌にいた樋口中将を戦犯として引き渡すよう要求したのですが、世界ユダヤ協会が米国防省を動かし、GHQソ連の要求を拒否したのです。今日、エレサレム中心地に楕円形をした三階建ての建物が建っています。この建物の中にゴールデンブックが展示されているそうです。この中にはユダヤ民族が暗い試練に立たされていた時に、多くのユダヤ人を救った三人の日本人の名が記されています。その中の二人の軍人が、樋口喜一郎中将とユダヤ協会と親交のあった部下のやすえのりひろ大佐です。もう一人が杉原千畝氏です。樋口中将の地元では最近銅像建立計画があるそうです。著者のM・トケイヤー氏は、東条英機元首相もユダヤ人と親しくなっていたら、ゴールデンブック入りしていたはずだとお書きになっています。日本人とユダヤ人との関係は弥生時代後期の第15代応神天皇まで遡ることができると、国史学田中英道先生はおっっしゃっています。