手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

おとなが知らない各社教科書の違い 共産主義の犠牲者 1億人

共産主義の犠牲者1憶人


「大人が知らない教科書の違い」 共産主義の犠牲者は1億人

いきなり質問ですが、皆さん、20世紀、最も多くの人命を奪ったのは人物は誰でしょうか。 しっていますか?もちろんこの問いに正確な数字を挙げて答えることはできません。では皆さんの教科書には、答えが書いてあるでしょうか。学び舎の教科書には、答えは書かれていません。東京書籍にも書かれていません。しかし、自由社には、271ページにヒントがあります。戦争と全体主義の犠牲者という題で、記述されています。一部を読みます。・・

この世紀ほどおびただしい人命が、失われた時代はなかった。第一次世界大戦では1000万人の戦死者を出した。第二次世界大戦では、戦死者の数は2500万人の規模になった上、多数の民間人も犠牲になった。ナチス・ドイツは、ユダヤ人などの大量殺戮を行った。ナチズムの犠牲者は、約2500万人とする説もある。また、共産党一党独裁が確立したスターリン支配下ソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の無実の農民が処刑され、あるいは餓死させられた。さらに政治犯の数を地域別に割り当てて、強制収容所に送った。中国の文化大革命による犠牲者などを合わせると、共産主義の犠牲者は、1憶人に近いともいわれる。以上です。

ここでは個人名は、スターリンだけですが、中国の文化大革命を始めたのは毛沢東です。

自由社の214ページには、ロシア革命小見出しのところに、次のような記述があります。マルクス主義の理論に基づいて武装蜂起したレーニンの一派は、労働者と兵士を中心に組織された、代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府をつくった(十月革命)。その後、他の党派を武力で排除し、みずからひきいる共産党の、一党独裁体制を築いた。1922年には、ソビエト社会主義共和国連邦ソ連)が成立した。ソビエト政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭した。皇帝一族をはじめ、共産党が敵とみなす貴族、地主、資本家、聖職者、知識人らが、数しれないほど殺害された。飢饉も発生し、数百万の農民が餓死した。この数知れないほどの人の命を奪った人物は、少なくとも責任者は、レーニンです。皇帝の白馬も殺されたそうです。

最初の質問に戻ります。自由社の教科書の記述から言えることは、正確な数は不明ですが、共産主義による約1億人の犠牲者の責任者は、レーニンスターリン、そして毛沢東ということができます。ヒトラーをナチズムの犠牲者2500万人の責任者とすれば、それ以上の数の犠牲者の責任者たちです。これほど多くの犠牲者を出した共産主義という暴力革命思想は、ソビエト社会主義連邦共和国の崩壊とともに急速に力を失っていきました。

このように歴史上多くの人命を奪った、共産主義、あるいはマルクス・レーニン主義とは、いったい何でしょうか。

共産主義は教科書でどのように説明されているのでしょうか

学び舎は、151ページで「このような経済の仕組み(資本主義)を改めるべきだとする社会主義の考え方が生まれました。土地や工場を社会の共有にして、平等な社会を実現しようとするものです。マルクスは、貧富の差を生み出す資本主義の仕組みを分析し、エンゲルスの協力のもとに「資本論」を著しました」と記述しています。学び舎の記述を補足すれば、数多くの人命を奪ったロシア革命の指導者、レーニンは、マルクスの主張を発展させ、「労働者と農民」の独裁を唱えたのです。

同じく学び舎は、211ページで、「ロシア革命は、世界で初めての社会主義革命でした。ソビエト政府は、地主の土地を農民にあたえ、工場や銀行を国有にすることを宣言しました」と記述しています。ですから労働者と農民以外は、敵です。かれらがどうなったか、学び舎は記述しません。また、側注ではレーニンの写真を掲げ、1922年ソビエト社会主義共和国連邦ソビエト連邦)が建国されたとき、初代の首相となった、「ソビエト」はロシア語で会議を意味すると記述していますが、学び舎は、ロシア革命の時に、多くの人命が失われたことについては全く記述していません。

これに対し、自由社は、マルクス主義について、214ページの側注で、「ドイツの思想家、カールマルクスがとなえた政治思想。まず革命によって、労働者が資本家を倒し、次に社会主義の段階を経て、最後に階級のない共産主義を実現するのだと説明した。ただし、社会主義共産主義は同じ意味で使われることもある」と記述しています。また、226ページでは、「共産主義の考え方では、労働者階級が団結して革命をおこし、資本家を追放して経済を計画的に運営し、階級による差別のない社会を建設することを理想とした。それを実現するための手段が、共産党にすべての権力を集中する一党独裁だった。ロシア革命によって、共産党独裁国家となったソ連では、レーニンの死後、スターリンが権力をにぎった。スターリンは、重工業を重視し、農業の集団化を進める一方、秘密警察や、強制収容所を用いて、膨大な数の反対者を処刑した」と記述しています。

ソ連は、世界中に共産主義を広めるため、1919年、コミンテルン(国際共産党)を結成して、世界各国に共産党を組織していきました。モスクワ本部の指令に従って、それぞれの国内を混乱させる活動を行いました。日本でも大正11年1922年、日本共産党コミンテルン日本支部日本共産党としてひそかに創立されました。昭和7年1932年の515事件や昭和11年226事件という、青年将校による反乱事件が起きましたが、彼らの思想は、国家社会主義といわれています。

これは労働者を天皇に置き換えただけの、日本的共産主義と理解することも可能です。共産主義を隠して社会主義と名乗ることもできます。先ほどの自由社の記述にありますように「ただし、社会主義共産主義は、同じ意味で使われることもある」というのはこのことも含んでいるのでしょう。

ロシア革命からソ連崩壊まで74年かかりました。

この間に多くの人が革命と戦争で命を失いました。支那事変もノモンハン事件大東亜戦争英米の思惑だけでなく、コミンテルンソ連の陰が見え隠れしていました。

「1943年コミンテルンは、ソ連英米と戦争協力するために解散しました。

 

しかし、ソ連は、第2次世界大戦により、東ヨーロッパを占領、戦争により疲弊した西ヨーロッパや大東亜戦争に敗れた日本の占領時代も、GHQを介して共産主義の影響をおよぼし始めました。

その後世界は、アメリカがひきいる自由主義陣営と、ソ連がひきいる共産主義陣営が勢力を争う冷戦の時代に突入します。」

 

戦後日本でも自由民主党と、労働組合の支援を受けた社会党共産党が対立をしました。この背後にはソ連の情報機関の工作があったといわれています。

日本が高度経済成長をとげる間に、米ソの冷戦はさらに激化していきます。

当初の日米安全保障条約では、アメリカは、日本を防衛する義務はありませんでした。昭和35年(1960年)1月、自民党は、新安保条約の国会承認を、強硬採決して、安保条約を日本の施政下では、共同して、防衛行動をとるように、改定しました。これは、日米同盟の強化でした。この時、日本共産党社会党などの社会主義勢力は、労働組合、学生団体などを巻き込んで反対運動を展開したのです。これも冷戦という枠の中の出来事でした。

現在も、社会主義勢力は、一部野党や労働組合として健在です。平成27年2015年の平和安全法制整備法案は、さらなる日米同盟の強化と言えるものでした。この法案の成立のときも、かれらは、マスコミと一緒に、激しく反対運動を展開しました。

 

昭和56年(1981年)レーガン大統領が登場、ソ連と大規模な軍備拡張競争を行いました。ソ連は経済的に耐え切れず、経済が破綻しました。グラフはソ連ではなく、2017年の、今のロシアと米国のGDPを、比較したものです。これだけの大きな経済規模の差があるわけですから、軍備拡張競争に耐えられなかったんでしょう。平成元年(1989年)米ソ首脳は冷戦の終了を宣言します。1991年のロシア革命以来、数多くの人命を犠牲にしたソ連は、ついに崩壊しました。そして東欧諸国でも次々と共産主義政権が崩壊していきました。

ソ連崩壊後。この地球上で共産主義をめざす国家は、中華人民共和国北朝鮮ベトナムラオスキューバくらいしかありません。

 共産主義は消滅したか

自由社270ページにはつぎのような記述があります。

「平成3年(1991年)ソ連は、解体した。ソ連を筆頭とする共産主義体制の崩壊によって、約70年間におよぶ共産主義の実験は、決着を見た。この体制は、人々に豊かで安定した暮らしを保証できず、言論の自由など政治的権利も保証もできないことが明らかとなりました」

 しかし、ソ連崩壊後も共産主義思想は、形、姿をかえながら生き続けています。ブラック・ライブズ・マターとかアンテイーファの活動は、差別を強調し、国民を分裂させようとしています。差別にはLGBTジェンダーとか、その時々に都合の良い問題が取り上げられます。これらの運動の指導者たちは、自ら共産主義者だと名乗っているそうです。