自由社VS学び舎 8.満州事変(2)
日本人は、日露戦争の後、満州の近代化のために多額の投資を行いました。馬賊を退治し、治安を回復させ、産業を興し、農業を発展させ、道路や街をつくり、学校、病院をつくり、国造りに貢献しました。ロシアは、なにもない赤い夕陽の荒野に、都市を次々建設しましたが、そのあとを受け継いで、南満州に近代都市を建設したのが日本です。製鉄所、発電所、ダム建設。大豆の生産は5倍、出炭は14倍、貿易は6倍となります。
これの何がいけないのでしょうか。中国への投資は良くて満洲への投資は悪いのですか?
開拓村の移民
小学校
松花江:短い夏を楽しむ移民
スキーを楽しむ移民
超特急アジア 大連ーハルピン間を走る
ロシア人ウエイトレス
機械化農業
粟の収穫
新京駅前広場
新京: 冬はスケート
新京: 満人街
奉天駅より青葉通りを望む
奉天満人街
奉天ヤマトホテル
撫順化学工場群
撫順露天掘りと炭鉱機関車
撫順オイルシェール工場
撫順: 通勤風景
撫順: セーラー服児童
ハルピン: キタイスカヤ街
ハルピン: 白系ロシア人の親子
ハルピン駅前
ハルピン: 満人街
満州が発展すると長城の内側からさらに漢人が大挙やってきます。毛沢東共産軍や蒋介石もソ連も世界最先端の工業・農業国家満州が欲しくなります。侵略してでも欲しくなります。
昭和2年ころは北京に進出した張作霖と蒋介石は敵対関係にありました。このような中、日本軍から勧告されて張作霖が満州への帰途列車ごと爆殺されます。どの教科書も日本の関東軍の仕業ということになっています。ソ連崩壊後に公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の工作であったと書かれているといわれています。コミンテルンにとって張作霖は邪魔だったのでしょうか?どちらがまだ正しいかわかりません。張作霖と対立していた蒋介石は、息子をソ連に人質同然に差し出していました。
そして1930年に息子の張学良が、北京に進撃して首都とし、南京の蒋介石政権と支邦を名目上2分しました。外国の列強に対しては南京の蒋介石政権を承認政府としましたが、満洲は蒋介石政権の支配下に入ったことはありません。張学良は蒋介石の部下ではなく、同等の、支邦を二分する片方の支配者でした。蒋介石は一度も満洲に足を踏み入れたことはなく、言葉も通じなかったのです。英国、米国の反日政策は、満州で拡大していきます。
続く