手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

【手奇塾】満洲事変を一番喜んだのは満洲人300万人


【手奇塾】「満洲事変 一番喜んだのは満州人300万人」

みなさんは、満州という国がかつてあったことを学校で習いましたか。

蒋介石は、一度も満洲に足を踏み入れたことはなく、言葉も通じなかったのです。満洲を支配する張学良の軍隊が消滅して、その支配権は、300万人の満洲人に戻り、清朝の最後の皇帝溥儀を元首に、故郷で独立宣言したにすぎません。清朝から独立した孫文漢民族はよくて、満洲人は独立してはいけないのでしょうか?

満州とは、清帝国を建国した満州人(女真ジュシェン族、後に満洲マンジュ族と改める)の故郷の地です。満洲は、満州人の神聖な土地で、清の時代は、厳しい移民法令を定めて、漢民族満州への立ち入りを禁止しました。立ち入ると死刑でした。さらに満州人と漢人の婚姻を禁止し、最後の皇帝が退位する数年前までこの禁制は続いていました。しかし、ユウーチューブの動画や教科書、マスコミは、満州国は、日本の傀儡国家だとか、満州事変は関東軍の暴走だったといっています。これは中国のいっていることと全く同じです。満州事変後の満州建国を一番喜んだのが満州人と言われています。自分たちの国ができたのです。これはイスラエルがやはり自分たちの国ができたことを喜んだのと一緒です。日本が後押しして建国をし、バチカン他20カ国に承認された国家でした。しかし、満州人の運命は悲惨でした。中国の占領後、チベットウイグル内モンゴル同様、満州語を禁止され、同化政策によりもはや満州語を話せる満州人は、今は一人もいないといわれています。これを民を洗うと書いて中国語で洗民と言います。

 今回は、誤解されています、満州事変について2回に分けて詳しくお話しします。前編はなぜ満州事変が起きたのかです。後編は満州国の発展と滅亡です。

 今の中国は、満州を東北地方と言っています。これは外務省のホームページで中国の反日記念日です。この中に9月18日満州事変(柳条湖事件)があります。もともと中国の土地で起こった事件ではないのですが、満州国を滅ぼし、自国領にしたものですから満州事変を反日記念日にしているのです。もちろん12月13日の「南京大虐殺」なんてありえない歴史の改竄です。韓国同様中国共産党反日が国是です。

 中国は、辛亥革命が起こり、孫文が指導者ということになりました。清朝の最後の皇帝溥儀は、協定を結んでから退位しました。協定とは、故郷である満州を西洋でいう「王領」、つまり「封禁の地」とし、そうした清国の権利を明記し、確認した退位協定が中国の根本法となったのです。しかし、中国人は、この協定を守りませんでした。国際仲裁裁判所の決定を紙屑という人たちです。

つまり協定を守ると満州人の満州支配を認めることになります。辛亥革命のときの漢人による満州人の虐殺行為は、1週間続いたといわれています。

 学び舎にはなぜか「満州事変」の見出しではなく「満鉄の線路を爆破」の見出しになっています。大見出しは、「鉄道爆破から始まった、日本の中国侵略」です。小見出しも「満鉄の線路を爆破」と「国際連盟からの脱退」で、2ページの記述です。満州と中国の国境線はなく全部中国の色に塗られています。つまり学び舎は、満州は、中国の領土だといっています。

これに対し自由社は、きちんと国境線を引き、「中国の排日運動と協調外交の挫折」、そして「満州事変と満州国建国」の大見出しで4ページにわたって記述しています。

学び舎は、231ページ側注で「多くはこのように現地農民の土地を買収したり、土地から追い出したりして、日本人を入植させるものだった。」と記述しています。これを読むと満州の土地は中国人のもので、それを日本が奪ったということになります。いままでのお話でそうではないことはお分かりになると思います。

自由社228Pは次のように記述しています。「日本が年号を昭和と改めたころ、中国では、各地に私兵をかかえた軍閥が群雄割拠していた。」1925年ころです。満州もそうでした。匪賊の頭領のような人物、張作霖が日本の後押しで軍閥の親分になっていました。
また、229Pでは「昭和初期の満州にはすでに20万人以上の日本人が住んでいました。その保護と、関東州および満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していた」と記述しています。関東州とは、遼東半島の南部で満州ではありません。日清戦争で清から割譲を受けた大連港、旅順港などの軍港があります。三国干渉で一度清国に返しますが、ロシアが進出し、旅順に要塞を築きます。日露戦争後今度は、日本が清から租借した土地です。日露戦争の時、清は、ロシアと同盟を秘密裏に結んでいましたが、日本側は知りませんでした。敵国ですから戦後清に賠償金を求めてもよかったのです。

満州だけではありません。当時すでにアメリカにもハワイにもブラジルにも多くの日本人が移住していました。

人口構成が圧倒的に支那人が多くなるとその土地の支配権は支那人に移ります。満州も同じでした。今の北海道のいくつかの土地がそうです。カナダやオーストラリアもそうではないでしょうか。

しかし、もともと満州は、満州人以外は立ち入を禁止されていた神聖な土地だったのです。

清朝が安定していた時代は、漢人も入れず、満州の地も平和でした。しかし清朝が衰え、ロシアが南下してくると治安は乱れます。もともと満州人にやとわれた小作人として働いていた漢人が、土地を奪うようになります。満州にロシア人のほかに漢人の難民や匪賊も流れ込んできます。日露戦争後、山東出身の匪賊の頭領のような人物が、日本を後ろ盾に満州をしだいに支配するようになります。張作霖です。私兵を雇い、逆らうものは見せしめに皆殺しです。前にお話ししましたが、辛亥革命のときの漢人による満州人の虐殺行為は、1週間続いたといわれています。このときの恐怖を知っている満州人は、張作霖から、どんな重税を課せられてもにさからうことはできなかったのです。長親子は、70憶ドルもの金の準備がない不換紙幣を発行し、住民から生産物を取り上げ、阿片の栽培と売買で軍隊を養っていました。長親子と満鉄は、互いに利用しあう関係になります。

 このような記述は教科書にはありません。中国がいやがるからでしようか?それとも文科省が忖度しているのでしょうか?そうあの近隣諸国条項です。

昭和2年ころは北京に進出した張作霖蒋介石は敵対関係にありました。このような中、日本軍から勧告されて張作霖満州への帰途列車ごと爆殺されます。どの教科書も日本の関東軍の仕業ということになっています。ソ連崩壊後に公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の工作であったと書かれているそうです。コミンテルンにとって張作霖は邪魔だったのでしょうか?張作霖と対立していた蒋介石は、息子をソ連に人質同然に差し出していました。張作霖は、日本に恩義があります。

ソ連から見れば張作霖よりも蒋介石が扱いやすかったのでしょうか。
 そして1930年に息子の張学良が、北京に進撃して首都とし、南京の蒋介石政権と支邦を名目上2分しました。外国の列強に対しては南京の蒋介石政権を承認政府としましたが、満洲蒋介石政権の支配下に入ったことはありません。張学良は蒋介石の部下ではなく、同等の、支邦を二分する片方の支配者でした。蒋介石は一度も満洲に足を踏み入れたことはなく、言葉も通じなかったのです。英国、米国、ソ連反日活動は、満州で拡大していきます。これら排日運動は、プロテスタントの宣教師達や蒋介石の米国顧問団、米国広告会社が裏で動いていました。日本とJPモルガン商会との南満鉄外債起債交渉は、つぶされてしまいます。蒋介石と対立していた張学良もやがて蒋介石に近づいていきます。いつまでも対立していると父親のようにいつソ連に排除されるかわかりません。満州の安全保障がいよいよ脅かされる状況になってきました。日本も同じです。関東軍は、張学良はソ連と通じているのではと不信感を抱きます。満鉄の列車妨害や日本人へのテロが頻発しますが、日本の外務大臣幣原喜重郎「中国の民族感情にも同情をもってする」と親中外交で、中国の排日運動は収まらなかった。2012年9月の尖閣列島国有化に反対したデモが暴徒化し、日系のスーパー、商店、車が次々襲われました。あれよりも残酷です。

1931年関東軍は、満州の現状を一気に改善しようと張学良の軍隊を追い払います。張学良の軍は15万とも20万ともいわれていましたが各地に分散していましたので、動きの速い関東軍と朝鮮から越境した日本軍、わずか1万4千に各個撃破されてしまいます。これをよろこんだのは満州人でした。満州国が建国されます。満洲国は、満洲語を話す民族300万人が、長親子の軍閥支配から独立して建国した国です。もちろん日本が後押しをしました。自由社230ページの側注にあるように、「1939年の時点で満洲国は、ドイツ、イタリア、スペイン、バチカンなど約20か国から承認されていた。」のです。

さくらの憂国日記【今さらファイブ・アイズへいらっしゃい?】


「最門司さくらの憂国日記」【今さらファイブ・アイズへいらっしゃい?】

 今さら、遅過ぎます。もっと早く、英米が賢く、日本と協調していれば、満州人も、チベット人も、ウイグル人も、モンゴル人も、朝鮮半島も平和だったでしょう。


 日本の新聞や、テレビが報じる記事の中に、それとなくフェイクニュースを潜ませて、世論誘導することは、今や日本だけでなく、世界中で当たり前になっています。SNSの普及とともに、私たちは、知らないうちに偽情報を、あたかも真実であるかのように信じてしまう危険が、毎日のように起きています。
 ある日本の新聞の電子版が、中国で今大激論が起きていると報じていました。それは、日米開戦前の日本の失敗を、中国政府は教訓にすべきだとする、冷静な警告が相次いで二つなされ、大論争を巻き起こしているというものです。この話は、事実かもしれません。
 一つは、日本は、ハワイ真珠湾攻撃によって米、英、フランス、豪、中国、最後はソ連までも同時に敵にした。戦前の日本と今の中国が似た過ちを犯しているから中国は注意すべきだというもの。
 もう一つは、1941年にベトナムカムラン湾など南部仏印に進駐した日本軍の行動が、フィリピンを含む米国の核心的な利益を侵すとみなされた。今の中国の南シナ海の諸位牌はかつての日本の仏印進駐とおなじだというもの。 問題は、新聞記事の次の部分です。1.日本は、ハワイ真珠湾攻撃によって米、英、フランス、豪、中国、最後はソ連までも同時に敵にした。2.最終的に日米開戦の引き金となったのが、日本軍によるインドシナ半島の南部仏印進駐。これを読んだ読者は、1. 日本は、今の中国、英国、米国、フランスそしてソ連とも同時に戦争したんだ。ばかなことをしたものだ、勝てるわけはないのに、と誤解してしまうかもしれません。2は、日米が戦争した直接の原因は、南部フランス領インドシナに進駐したからだと、記事を読んで思い込まされるでしょう。あるいは、学校の歴史で習ったことがある、その通りだと思いだす人がいるかもしれません。これが歴史戦・情報戦の成果です。まんまと戦勝国、連合国側、中国の書いた歴史を、読者は、頭に刷り込まされることになります。真実の文章の中に世論誘導のための偽情報を潜ませて、あたかも全体が真実であるかのように世論を誘導する手法は、今も昔も変わりません。 「大人が知らない教科書の違い」【中国の台頭】と【戦争とスパイ】をご覧になった方はもうお分かりだとおもます。違いますよね。
 日本が支那事変、大東亜戦争を戦っていたとき、中華人民共和国は、まだ存在していませんから、中国と戦っていません。戦ったのは、台湾に逃れたかつての国民党政府です。また、日米開戦の引き金は、日本軍のインドシナ半島の南部仏印進駐などではありませんでした。
次の年表を読めば、そうではないことがわかるでしょう。アメリカは少なくてもその1年前に、日本に戦争を仕掛けているのです。日本軍の隼戦闘機やゼロ戦と、アメリカ空軍カーチスP40の空中戦が、中国ビルマ国境周辺の上空で行われていたのです。この事実があきらかになりますと、日本が、侵略したというストーリーが成り立たなくなります。日本は逆に攻撃されたということになります。事実支那事変(日中戦争)前に多くの罪もない一般の日本人が各地で虐殺されています。満州事変後、排日運動の裏に英米と国民党政府がいて、「中国から満州を奪った敵だ、やっつけろ!」の政治宣伝を叫び、華僑が日本人商店を略奪、破壊しました。マレーの虎で有名なハリマオ(本名谷豊)は、三歳のとき一家でマレー半島南部英領トレンガヌ州に移住して、両親は、理髪店とクリーニング店を経営。豊が徴兵検査で日本に帰国中、広東人の暴徒が風邪で寝ていた7歳の妹の首を斬首。その首を高く掲げて華僑のデモに参加したといわれています。豊は、華僑、英国人に復習を誓ったのです。満州が日本の侵略だといって中国国民党政府は、国際連盟に訴えましたが、列強は満州の日本の権益を認めるとともに、中国の主権を認め、ゆくゆくは英米ソ連満州に権益を持とうとするものでした。詳しくは「大人が知らない教科書の違い」満州国建国でお話ししますが、国際法上何の問題もなく、事実バチカン、ドイツ、イタリア、スペインなど20カ国から満州人の国家満州国は、承認されたのです。何が問題でしょうか。その満州人の国家、満州国を侵略して、満州語を禁じ、東北地方にしたのは今の中国です。さらに内モンゴルチベットウイグルも侵略し、今各民族のことばを禁止しているではないですか。日本は、満州を侵略したというのは自分たちの侵略を隠すため以外、他にありません。
1921年ワシントン会議で、20年続いた日英同盟が、米国の強い意向で廃棄
1927年から1940年にかけて米国は、蒋介石国民党に計4億2千万ドルを援
1931年満州事変
1932年満州国建国 後に独、伊、スペイン、バチカンなど20カ国に承認される。
1936年西安事件 蒋介石監禁される
1937年支那事変
1937年ソ連航空機、武器弾薬を援助
1938年フランス1億5千万フラン借款で支援
1938年 日本国家総動員法成立 日中戦争の長期化によりドイツやソ連のように統制経済を理想
                とする思想が広がっていた。
1939年 英1千万ポンド借款 英国、日本と戦争する意思決定
1939年 日米通商航海条約を延長せず  米国、日本と戦争する意思決定
1940年夏 フライイングタイガーズ派遣。 日本爆撃計画にルーズベルト署名
1940年9月 三国同盟締結 日本軍北部仏印進駐
1941年7月 日本軍による南部仏印進駐 
 日本は、ここでようやくオランダとの石油輸入交渉を有利に運ぶため、オランダに圧力をかけようと、フランス政府の了解のもとに仏印に進駐したのです。英国も米国も日本と戦う決意があり、つまり外交交渉で日本を相手にしていないのです。日本の仏印進駐よりも1年前にもう日米戦争は、始まっていて、日本よ、降伏するか、戦うか、選択せよということです。この年表から、それを読み取れます。
 そもそも日米は、争う必要はありませんでした。日本は、アメリカから石油、航空機用ガソリン、鉄くず、その他を輸入していました。日本は、それらを使った製品と輸入した機械、原材料を支那の政府(軍閥)や満州に輸出していました。ちなみに日本は、現金払いでしたからアメリカからみましたら、いいお客様でした。簡単に言えばアメリカが、機械原材料を日本に輸出して、日本がこれを加工、支那満州へ輸出するという、win.win.の関係でした。アメリカの当時の支那への直接輸出は、半分以上が石油製品、タバコ、綿花でした。これらは競争力があり、日本と競合することはなく、まして戦争などする必要などなかったのです。ところがいつの間にか、米国は他の列強によって先頭に押し出され、日本包囲網の中心になっていました。
 アメリカは1927年から蒋介石を援助しているのです。ソ連、イギリス、フランスも支那事変前後から援助していて、日本と外交的に対立しています。日本と蒋介石・国民党政府とを戦わせ、鉄道敷設権などの利権を得ようとしたのは明らかです。日本が歴史に学ぶことは、支那事変勃発、南部仏印進駐それ自体ではなく、ソ連の意図、英米の意図をみぬけなかったこと、内閣のブレーンにまで入り込んだスパイ、これらによって、国の政策を誤ったことではないでしょうか。今の日本は、かつてのような力はありません。英米が賢く振る舞い、日本と協調していたら、満州民族チベット民族、ウイグル、モンゴルは今よりも平和で幸せだったのではないでしょうか。朝鮮半島もそうです。原爆も落ちなかったでしょう。今さらファイブアイズにいらっしゃいと言われても遅いのです。当時日本は、国際法の何を犯したのでしょうか。今の東アジアの不幸は、英米の責任がかなり重いのではないでようか。

「大人が知らない教科書の違い」【なぜ今再び大東亜会議か】


「大人が知らない教科書の違い」【なぜ今再び大東亜会議か】

 

大東亜会議を正しく記述すると、日本は侵略をした、アジア諸国に多大な損害を与えたという、ストーリーが成り立たなくなります。この大東亜会議の精神は、昭和40年、1965年の、第1回バンドン会議、(アジア・アフリカ会議みごとに引き継がれました。しかし、大東亜会議やバンドン会議の精神に、反する国がまだアジアにあり、その支配から逃れたいという民族が、まだいるのです。そして彼らは、救いの手を今も待っているのです。
 大東亜会議、あの頃の力はもう日本にはありません。あの時、英米が賢く振舞い、日本と協調していれば、今、中国共産党はなく、原爆も落ちず、ウイグル人も、チベット人も、朝鮮半島も、今よりも平和だったはずです。ですから英米の責任は重いのです。しかし、もしそうなれば植民地からの独立は、なかったかもしれません。

わが国は、大正8年、1919年、第一次世界大戦後の、パリ講和会議で、世界で初めて、人種平等を国際連盟規約に、盛り込むよう提案しました。世界の有色人種は、この決議に期待したのです。投票の結果、11対5で、賛成が多数を占めましたが、議長役のアメリカのウイルソン大統領は、重要案件は全会一致を要するとして、決議の不採択を宣言しました。当時世界は、まだ白人が、有色人種よりも優れていることが、彼らの常識でした

次に日本が、英米、欄に挑戦状をたたきつけたのが、この大東亜会議でした。これは大東亜会議、70周年記念講演の一部です。アジアにはまだ植民地支配をされ、人種不平等な人々が、ウイグルチベット、モンゴルにいますという悲痛な訴えです。学び舎の教科書にも、東京書籍にも、大東亜会議という文言はありません。もちろんウイグルチベットの説明もありません。高校山川、詳説日本史Bには、大東亜会議が少し載っています。

しかし、その説明は、およそ正確とは言えません。まず高校山川の記述を読みます。1943年(昭和18年11月、東条内閣は、占領地域の戦争協力を確保するために、満州国や中国(南京の汪兆銘政権、タイ・ビルマ・自由インド・フィリピンなどの代表者を東京に集めて、大東亜会議を開き、「大東亜共栄圏の結束を誇示した。

しかし、欧米列強にとってかわった日本の占領支配は、アジア解放の美名に反して、戦争遂行のための資材・労働力を最優先するものであったので、住民の反感・抵抗がしだいに高まった。

東南アジアの占領地では、現地の文化や生活様式を無視して、日本語学習や天皇崇拝・神社参拝を強要し、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設、土木作業などや鉱山労働への強制動員もおこなわれた、と記述して、肝心な大東亜会議とはなにか、詳しく記述されていません。アジアの国がいつ、どのように独立したのかも書かれていません。これでは生徒さんたちは、誤解してしまうのではないでしょうか。

みなさんは、前回の「大人が知らない教科書の違い」【植民地からの独立】をご覧いただくことで、植民地の独立に、日本軍がどうかかわったかを学ぶことができます。それでは自由社の中学歴史教科書では、大東亜会議がどう説明されているでしょうか。「日本の緒戦の勝利は、白人の植民地支配に苦しんできた、東南アジアやインドの人々に、独立への夢と希望をあたえた。日本軍の破竹の進撃は、現地の人々の協力があってこそ可能だった

親日国だったタイに加えて、日本軍の捕虜となった、イギリス軍のインド人兵士を中心として、インド国民軍が結成され、インドネシアビルマでも、日本軍の指導で軍隊がつくられた。この軍組織が、のちに建国の中核になった、次は小見出し、大東亜会議です。「以前からアジア各地の独立運動家が、日本に亡命し、多くの日本人がこれを支援していた。戦争が始まると日本は、占領下に置いたアジア各地域に、戦争への協力を求めた。

現地の人々は、将来の独立を期待し、これに応えた。さらに、その結束を示すため、1943年(昭和18年11月、東京で大東亜会議を開催した。会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して、大東亜共同宣言が発せられ、大東亜共栄圏の建設を戦争目的とした。どうですか。高校山川の大東亜会議の説明と比べて、どちらがわかりやすいですか。ここで自由社の側注を見てみます。

「日本は1943年、ビルマ、フィリピンを独立させ、自由インド仮政府を承認した(大東亜会議に出席」。1945年にはベトナムカンボジアラオスを独立させた、と記述しています。さらにその下には、大東亜共同宣言の一部要約が載っています。ひとつ、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、大東亜の親和を確立する。ひとつ、大東亜各国は万邦との交誼を篤くし、人種的差別を撤廃し、世界の進運に貢献する。どうですか。

インドはイギリスの植民地、ベトナムラオスカンボジアはフランスの植民地でした。インドネシアは、オランダ、フィリピンはアメリカの植民地でした。白人の自由平等をうたう太平洋憲章に対し、有色人種の代表が東京に集結し、植民地からの独立と、人種平等を高らかに宣言したのです。なぜか学び舎も東京書籍も山川も、フィリピンがアメリカの植民地だったことを書きません。

英国や米国、オランダとしては、絶対に許せる行為ではなかったでしょう。ここまで読み比べると、高校山川と中学自由社の教科書の、どちらがわかりやすいか、また正確に記述されているかわかりますね。日本の敗戦により、旧宗主国のイギリス、フランス、オランダは、直ちに再支配するために戻ってきたのです。これだけで太平洋憲章は、誰のためのものだったのか分かります。

しかし、これらの地域は、その再植民地支配に立ち向かって、次々と独立を達成しました。日本軍の将兵の中には、終戦後も現地に残り、現地のひとたちとともに、独立戦争を戦ったひとが多数いました。自由社の教科書に書かれている、この日本の軍政下の施策とは、小学校や技術訓練の学校を設立したり、民衆を奮い立たせる教育を実施したことです。

山川の364ページで「ことにシンガポールやマレーシアでは、日本軍が多数の中国系住民(華僑)を反日活動の容疑で殺害するという事件も発生した。その結果、日本軍は、仏印・フリピンをはじめ各地で組織的な抗日運動に直面するようになった。と記述しています。しかし、自由社は、241ページでこのように記述しています。「日本語教育や神社参拝を強いたことに対する反発もあり、連合国と結んだ抗日ゲリラ活動が起きた。

日本軍はこれにきびしく対処したので、民間人もふくめ、多数の犠牲者が出た。と記述し、さらに側注でその理由を説明しています。武器を公然と停滞せず、民間人の服装をして攻撃する、いわゆるゲリラのテロ行為は、戦時国際法によって禁止されており、捕まった時捕虜としての保護を受けられない、と考えられていた、と記述しています。華僑の場合は、殺人事件ではなく、イギリス軍のスパイとして逮捕、裁判の結果処刑されたのです。

さとうささら,山川はここを敢えて書いていません。山川日本史で学んだ高校生は、日本が欧米のアジア植民地を占領支配し、代表者らに独立の夢を与えて、東京に集め、大東亜会議を開いた。しかし、結局占領地で悪事を働き、かえって、反感を買い、抵抗された。そのうち日本は負けて、植民地はいつのまにか独立した。このように記憶にとどめるのではないでしょうか。しかし、中学自由社で学んだ生徒は、大東亜会議を正確に記憶するでしょう。

なぜ東京書籍や学び舎には、大東亜会議の記述がなく、山川日本史には、ごくわずかな記述しかないのでしょうか。つまりアジアの植民地は、なぜ独立したかという答えの始まりが、大東亜会議ですから、東京書籍などの教科書は書かない、山川日本史も、「アジア解放の美名に反し、住民の反感、抵抗が次第に高まった」と記述する以外ないのでしょう。私たち、日本人も戦後の教育ですっかり、大東亜会議を忘れさせられています。

日本は、自存、自衛のために戦争を決定しましたが、大東亜会議でこの戦争目的が、大東亜共同宣言を実現するための、大東亜共栄圏の建設と定まったのです。そして日本は、占領地を広げていき、現地の人々は、日本軍と英軍、オランダ軍、米軍との戦いをみて、独立の決意が固まっていったのは確かでしょう。日本軍はそれを支援しました。

「最門司さくらの憂国日記」 【反安倍さんから反菅へ】


「最門司さくらの憂国日記」反安倍から反菅へ

今回は、【反安倍さんから反菅へ】です。

反安倍さん達は、いったい何を批判していたのでしょうか。前回の「安倍首相辞任でお話し、しましたように、アベノミクスの金融緩和で円安になり、株価は上昇し、失業率は大幅に下がったことを申し上げました。安倍政権に反対する人たちは、一応これらを認めながらも、やはり安倍政権は、日本を悪くした。安倍政権になって世の中はますます暗くなったといいます。そして彼らの主張が最もよく表現されたのが、安倍首相辞任の時でした。この時ネット上で見られたこの人たちの意見は次のようです。例えば、安倍首相の辞任は、とりあえず喜ぶべきこと、とりわけ憲法改正を阻止できたことはとても大きな成果です。しかし、それでも心が晴れない。なぜならば、自公政権が強く、国民の支持を得ているので、これを倒さない限り闘いは終わらない、という意見がありました。また、安倍自民党にとどめを、というハッシュタグもありました。内容はこうです。誰に首相が代わろうとも、安倍が国会議員でいる限り、この独裁システムはなくせません。経済面でも、コロナ対策でも失敗を重ね、日本をますますズタズタにしていくことでしょう。このような安倍独裁システムの継続は、断固として拒否しなければなりません。以上このふたつの代表的な意見は、特定のイデオロギーに染まった、独善と偏見の代表的な少数意見ではないでしょうか。

日本のコロナ対策は、諸外国に比べて優等生という方もいます。外国の皆さんもそれを認めています。本来安倍首相辞任の発表で、反安倍さん達は、エイエイオーと勝どきをあげてもいいはずです。しかし、彼らの心は、晴れずに曇ったままらしいのです。ある新聞の電子版は、反安倍さん達の心情を、「安倍政治は終わらない」深刻な理由と題して、反安倍の識者の発言を紹介しています。「安倍政権下で日本社会の『劣化』は予想通り進みました」といい、また日本が沈没しかけていると述べています。その理由を次のように掲げています。

経済的な理由:

1. 国民の所得は、1997年以降ほぼ一貫して低下しています。

2. 1人当たりの国内総生産GDP)は、2018年にイタリアと韓国に抜かれて世界22位

3. 日本の最低賃金の低さはOECD諸国の平均の3分の2にも満たない。

4. 失業率の低さは非正規雇用の増加で『盛った』ものでしょう。

社会的な理由:

 「一方社会の健全さを示す社会指標に目を向けると、もっと悲惨です」といい、

日本青少年研究所の高校の生調査では、

1. 『どんなことをしても親を世話したい』割合は中国88%、米国52%、日本38%。

2. 『親をとても尊敬している』割合は米国71%、中国60%、日本38%。

3. 『家族との生活に満足している』割合は中国51%、米国50%、日本39%。

「家族が空洞化しています」と言っています。

4. 『私は人並みの能力がある』について

『とても』と答える割合は米国56%、中国33%、日本7%。

5. 『自分はダメな人間だと思うことがある』を肯定する割合は

米国45%、中国56%、日本73%。

6. 子どもについてユニセフ(国連児童基金)が今年公表した幸福度調査

先進・新興国38カ国の下から2番目です」と言っています。       

しかし、本当にこれらのことは正しいのでしょうか。いや完全に間違っています。一つ一つ検証していきます。1番の「国民の所得は1997年以降ほぼ一貫して低下しています」は、このグラフでそうではないことが分かります。実質賃金は、物価を考慮した実感に近い賃金ですが、安倍政権で実質賃金が低下したという人もいます。安倍政権、民主党政権に関係なく、1990年代半ばから実質賃金は、確かに低迷しています。しかし、大事なことは、実質賃金が低迷していたり、減少しているから国民がずっと貧しいわけではありません。失業していた人が再就職した場合、全体の実質賃金は減ります。平均ですから。このグラフは、雇用者数が増えています。そしてこのグラフは、雇用者の報酬、賃金の合計です。安倍政権時代に新たに働く人が増えて、報酬も増えて、国民全体の暮らしは、良くなっています。その代わり、新たに働いた人は、賃金が安い傾向ですので、平均の実質賃金は下がります。高齢者の再就職や女性のパート、アルバイトは、実質賃金を押し下げます。これは「ひろのひとりごとから拝借した図です。実質賃金の増減だけでは豊かどうか判断できないことの説明です。つぎは2ばん、3番です。これは為替レートのグラフです。グラフでお分かりの通り、民主党政権時代は、1ドル75円から95円という超円高だったと言えます。「日本の民主党政権時代に「国民一人当たりGDP」の国際順位を上げている」という、おっしゃるかたもおりますが、これも超円高のマジックです。数字をドルベースで国際比較するわけですから、為替が円高の時と円安のときでは、その国際比較の順位はすぐに入れ替わってしまいます。賃金のアップを政府が企業にお願いをしていましたし、最低賃金も、1000円を目標に、毎年3%めどに引き上げようとしています。かつての超円高で自動車、半導体などの輸出産業は、海外に移転し、国内の雇用はその分減ります。失業者も増えます。これこそ「悪夢」というものです。日本が大東亜戦争に踏み切った理由も1千万人から1200万人の失業者がでることを日本政府は恐れたと、マッカーサーが公式の場で発言しているのです。今、各国政府が最も神経を使わなければならないのは、武漢コロナの影響による失業者の増大でしょう。4番目の失業率の低さは、非正規雇用の増加で『盛った』ものでしょう」これも、安倍政権で失業率が大幅に低下したことを認めつつ、それは非正規雇用が増えているだけではないかという批判です。非正規雇用が増えている一つの理由に、移民の増加や高齢者の非正規雇用増加も一因として挙げられます。正規・非正規社員の問題は確かに大きい問題ですが一歩一歩改善していくことが必要でしょう。政府は、非正規社員を正規社員にするためのキャリアアップ助成金制度を始めました。つまりいろいろ数字を挙げて反安倍さんは、経済的に批判をしているのですが、どれも言いがかりに聞こえます。次に1から6の社会的な理由を挙げて日本は沈没しつつあるというわけですが、これもさも安倍政権でこうなったように言いがかりをつけているのですが、戦後このような、道徳教育を否定し、家族の大切さを教えない教育をしてきたのが反安倍さんたちではないでしょうか。それでは、戦前は、学校でどのように教えていたか、この1から6の問題を対比させてみます。自分たちで反対して、高校生のアンケート結果が良くない、日本は沈みかけていると批判しているわけです。ユニセフ(国連児童基金)の幸福度調査も左に列挙した教育を行えばしだいに改善されてゆくはずです。左に掲げた教育とは何でしょうか。「佐久間艇長、日本人よ一度原点にもどろう」をご覧いただいたかたはもうお分かりになるでしょう。そうです、戦前小学生が暗記した教育勅語です。

9月16日菅内閣が発足しました。早速、「#スガやめろ」というハッシュタグがトレンド入りしました。安倍晋三菅義偉は戦後最悪の政治屋だと思う人は、リツイートといいねを、お願いします。怒りに打ち震えるとはこのことだ。予想されたとはいえ、菅義偉の嬉しそうに万歳をして、安倍晋三に感謝を述べるに至っては、悪夢を見ている様だ。今までの反安倍さんたちは、そのまま「反菅さんたちになるのでしょうか。9月19日、もと安倍首相が靖国神社を参拝し、英霊に総理大臣退任を報告されたという。オールドマスコミに、影響されない若者たちに、支持されてきた安倍首相らしい参拝でした。

中学歴史教科書 自由社 VS 学び舎 アジアの欧米植民地が独立した理由


「大人が知らない教科書の違い」【アジアの欧米植民地が独立した理由】

第7回【アジアの欧米植民地独立が独立した理由】

 学び舎は、267Pで、アジアの独立についてわずか3行の記述と、コラムでインドネシアの独立を説明しています。しかし、よく読むと、このコラムも独立の説明部分は「オランダ領東インドでは、日本軍の占領下でも独立を求める運動が起こり、1945年8月17日、指導者スカルノらが、インドネシア共和国の独立を宣言した」これだけの記述です。生徒諸君、ご父兄のみなさまわかりますか?みなさまのご理解は、どうもアジアの国々は次々と独立したらしい。インドネシアは、4年も独立戦争がつづいたらしい。日本は現地で悪い事ばかりした。これくらいでしょうか。同じページには、米軍基地に反対する農民たちのモノクロ写真と側中に「賠償を求めたアジア諸国」があります。これでは、欧米の植民地が独立してよかった、米軍基地反対運動はむかしからあったんだ。日本は、侵略戦争をしたから倍書金を払ったんだ。だいたい、こんなことを歴史として学ぶのでしょうか。

それではこんどは、自由社の教科書を見てみましょう258Pです。右上にこの表があります。

日本の国家賠償とその他の経済援助の表です。学び舎の側中の賠償を求めたアジア諸国と見比べてください。学び舎は、この自由社の表の中の一部の国だけで説明をしていることがわかります。もちろん賠償とは、戦争に勝った国が負けた国に要求する習わしで、負けた方の支払いは大変ですが、戦争にはお金がかかります。かつては日清戦争で、日本は、清国から賠償金を取りました。第1次世界大戦は、戦勝国が負けたドイツに多額の賠償金を要求しました。これは戦争が終わった時のけじめです。日本は賠償金を立派に支払い、さらに無償有償の経済援助までしているのです。独立したばかりの国は、国家建設のためお金が必要だからです。学び舎はここを説明しません。

 次は240Pです。小さい見出しで、「アジアに広がる独立への願望」で日本の初戦の勝利は、白人の植民地支配に苦しんできた東南アジアやインドの人々に、独立への夢と希望を与えた。と記述しています。同じく小見出し「大東亜会議」では、以前からアジア各地の独立運動家が日本に亡命し、多くの日本人がこれを支援していたとあります。

また、「アジア諸国と日本」では、「日本は、占領各地で軍政をしいた。小学校や技術訓練の学校を設立し、民衆をふるい立たせる教育も実施した。」と記述しています。241Pを見てみます。「アジアを奮い立たせた日本の行動」と「日本を解放軍としてむかえたインドネシアの人々」が写真とともにあります。

これだけではありません。246Pと247Pの2ページのコラム、外の目からみた日本では、

日本は、「自存を目的として、戦争がはじまると直ちに資源獲得のために、当時オランダやイギリスの植民地になっていた東南アジアに軍をすすめました。」と自由社は、日本の南進を明確に記述しています。もちろん軍を進める前にはオランダと石油の輸入交渉をしましたが断られました。また、仏印進駐もフランスの了解を得てからしました。当時の日本からすれば侵略などではなく、フランスの合意で行われたことなのです。

ちょっと横道にそれますが、この自存という意味は、日本が生きてゆくという意味です。つまり日本人が暮らしていくという意味です。自存が脅かされると日本に住む人々は暮らしが成り立ちません。会社は倒産し、人々は職を失い、餓死者が出るかもしれません。いや出るでしょう。そうならないようにするのが政府の責任です。先ほどの自由社の教科書にある、日本は自存を目的として、とはこのことを意味します。そして戦犯として裁かれた東条英機元首相とマッカーサー元帥のお二人ががまったく同じことを言っているのです。

 東条元首相の東京裁判の時の宣誓供述書を要約してみるとこの3つです。

1. 大東亜戦争は自衛のための戦争であったこと

2. 天皇陛下には戦争の責任が一切ないこと

3. 大東亜戦争は東亜民族の解放戦争であったこと

そしてこれはアメリカ上院軍事外交合同委員会という公式の場でマッカーサーが証言した一部を抜き書きしたものです。

Their purpose, therefore in going to war was largely dictated by security.

彼らが戦争をした動機は、だいたいが安全保障のためだったと、言っています。

マッカーサーも1000万から1200万人の失業者が発生するだろうことを彼らは恐れていましたと言っています。今回の武漢コロナ被害について、数量政策学者の高橋洋一教授によれば

ある程度定量的に分析が可能で、仮にコロナショックでGDPの3~4割が失われ、有効需要創出の政策をまったく行わなかった場合、失業率は4%程度、失業者は250万人程度、そして自殺者は1万人程度増加すると試算できるとおっしゃっています。マッカーサーのいう失業者1000から1200万人がいかにすごい数字化お分かりいただけたでしょうか。自殺者は4倍の4万人以上です。当時の日本政府の政策は自存、つまり政府も国民も戦って生き延びることを選んだといえるのではないでしょうか。だれが首相であっても英米との戦争は避けられなかったのではないでしょうか。

詳しくは、youtube「戦争とスパイ」をご覧ください。

もとに戻りますと、次に「インドの独立と日本軍」では、インドが長くイギリスの植民地にされていましたが、インド独立のための国民軍を日本軍がつくったことが書かれています。そして、「世界が見た大東亜戦争」では、ミャンマーの初代首相の著書「ビルマの夜明け」には日本の植民地解放の功績をたたえているとを紹介しています。またタイの元首相が「日本のお陰でアジア諸国はすべて独立したと述べていたことが書かれています。

さあ、どうですか、学び舎で学習した、アジアの独立と自由社で学習したアジアの独立は、大きな違いがあること、全くといってよいほど、見方が違うことをご理解いただけましたでしょうか?

自由社241Pの則注3をご覧ください。読みます。・・・

インドネシアでは、約1000名の元日本兵が残留し、インドネシアの独立のために、PETAとともに4年半にわたって戦った。この独立戦争で約700人の元日本兵が戦死した。どうですか?皆帰ろうと思えば日本に帰れたのですが、戻ってくるオランダ軍と必ず戦うことになる訓練をした教え子たちを見捨てることはできなかったのでしょう。日本人なら理解できると思います。この辺のことは246P「アジアをおおう独立の波」に詳しく書かれています。読みます。日本が連合国に降伏すると、欧米諸国は、日本の占領下にあった、ビルマミャンマー)、マレー)、マレーシア、

インドネシアに再び支配しようと戻ってきました。しかし、日本軍によって指導を受けていた人をはじめ、これらの諸国の人々は、勇敢に戦い、再度の支配をはねのけました。インドネシアは、日本の占領中は独立を認められませんでした。戦後多くの日本の兵士が現地に残りインドネシアの人たちとともに独立のために戦いました。日本軍は、ベトナムカンボジアラオス、からなる仏領インドシナにもフランス政府の了解を得て、進駐しました。この地域でも、日本が降伏後、多くの日本兵が現地に残り、これらの国の人々と一緒に独立戦争を戦いました。

これは先の天皇皇后両陛下がベトナムをご訪問されたときのお写真です。両陛下がお言葉をかけられている相手は、戦争が終わってもベトナムに残り、戻ってきたフランス軍と戦った元日本軍将兵のご遺族です。

 みなさん、学び舎と自由社の違いがお分かりになりましたか? この動画は教科書の違いを明らかにすることで、どちらの教科書がよいとか悪いとか決めるものではありません。

お決めになるのはみなさんです。

「桜の憂国日記」【佐久間艇長】道徳・歴史のガラパゴス


「最門司さくらの憂国日記」【佐久間艇長】道徳・歴史のガラパゴス  戦前の修身の12の文章と文科省の道徳の学習指導要領、5学年、6学年を対比してみました。

 日教組の先生がたが、道徳教育にいろいろな理由をつけて反対してきたこともこれでよくわかります。日本を壊して、自分たちにとって理想的な社会を作りたいのでしょう。しかし、少数のそのような先生方に教育を任せるわけにはいきません。

戦前のすべてを、暗黒の時代、軍部が独走して侵略戦争をしたといって、切り捨てるやり方が、かえって日本の教育を、ガラパゴス化させ、大人になってから恥をかくことを、学校の先生や教育行政は、まだお気づきになっていないようです。気づいているのはその商社マンや海外に駐在している会社員とその家族でしょう。日本の教育現場では、世界を見ない、独特の閉鎖環境で、多文化共生といい、陰で日本文化や伝統を否定しているようです。特に道徳と歴史教育が、独自の進化ではなく、退化してしまっているのではないでしょうか。

  今回は、「13歳からの道徳教科書」という本に書かれている、佐久間艇長についてのお話しです。日本には、商社という種類の会社があります。大手の商社を総合商社とも言います。そこで働く商社マンとは、ラーメンからミサイルまで取り扱う、総合商社の営業マンです。海千山千の、生き馬の目を抜くと形容され、彼らの通ったあとは、ぺんぺん草も生えないと、言われたことがあります。
 砂糖の代わりの甘味料の原料は、甘い草とかいて甘草といいます。これは荒れ果てた、砂漠地帯に生えている草で、誰も見向きもしませんでした。商社はこれで、砂糖の代わりの甘味料を作り、日本人は、カロリーゼロということでコーヒー、紅茶に入れて飲んでいます。砂糖の50倍以上の甘みがあるそうです。
 こんなやり手の商社マンは、世界中に進出しているわけですが、イギリスで、あるビジネスマンと食事をすることになりました。このビジネスマンは、ロイヤルネイビー出身者でした。つまり元、女王陛下の海軍士官です。かれは日本から来た、商社マンということで「佐久間艇長」の話を始めました。ところがさすがの商社マンでも、佐久間艇長、佐久間大尉、1910年、潜水艇が、何のことかわからなかったそうです。その後この商談が成功したかどうかわかりませんが、この日本人のやり手の商社マンが、相手から見て失望に値する人物であったことは間違いないでしょう。この「佐久間艇長」の遺書のコピーが、イギリスでは、王室海軍潜水資料館で、アメリカでは、国会議事堂の大広間のガラス戸棚に展示されているそうです。このロヤル・ネイビー出身の紳士にとって、「佐久間艇長」は海軍士官学校で教えられ、そこで感動した話ですから、艇長と同じ日本人の意見を訊いてみたかったのでしょう。

【戦後教育の一つの欠陥】

大学出の海千山千の商社マンでも「佐久間艇長」の遺書の話を知りませんでした。そしてイギリスで、大恥をかいてしまったのです。これは戦後教育の一つの欠陥の現れではないでしょうか。

道徳や歴史教育に限っていえば、もはや日本の教育は、ガラパゴスになって世界から置いてきぼりにされたのではないでしょうか。いまではもう世界に通用しない、日本だけの教育ではないでしょうか。戦前の教科書には、この話が載っていて、小学生はみな知っていたそうです。

ところでなぜ、戦前の小学校の道徳教科書には載っていて、今の教科書には、のっていないのでしょうか。理由は簡単です。大東亜戦争の敗戦後一時期、修身、国史、地理の教育が禁止されてから、戦前の教育はすべて悪い、軍国主義だという、教育界に独善的な判断が今でもあるからです。それでもようやく、平成30年から、小学校で道徳が正式教科として実施されるようになりました。そもそも道徳とはいったい何でしょうか。

渡辺昇一先生は、「13歳からの道徳教科書」で道徳を次のように述べておられます。

ギリシャ、ローマもありますが、そこには、古代アテネギリシャ人やローマ帝国のローマ人はもはやいないのです。古代ギリシャ・ローマはもはや続いていないのです。一方今も残るゲルマン民族などは非常に家系を重んじたというのです。現存するヨーロッパで有名な家には祖先からの系図が残っています。では、日本はどうかというとやはり神話の時代からの系図を重要視してきました。このように家をおもんじるという精神が指導者階級にあったから、日本は今まで続いてきたのではないでしょうか。そのためにいろいろな道徳がうまれ、これらが日本の道徳の起源になったのだと思います。このように道徳とは、ある民族が、未来までずっと続き、繁栄していくためにつくられた、みんなが納得できる決まりであると言えましょう。」

 

修身や道徳の理念が廃止されたり、全く別の理念に変えられたりすると民族や国家は永続しなくなるのではないでしょうか。ここで戦前の修身の12の文章と文科省の道徳の学習指導要領、5学年、6学年を対比してみました。修身の文章は、全部で僅か400文字くらいです。

修身、1.親に孝行をつくしましょう 文科省、父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをする。

修身2.兄弟姉妹は仲良くしましょう 文科省、だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。

修身3.夫婦はいつも仲むつまじくしましょう 上と同じで、文科省だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。
修身4.ともだちはお互いに信じあってつきあいましょう、文科省、互いに信頼し,学び合って友情を深め,男女仲よく協力し助け合う。

修身5.自分の言動をつつしみましょう、 文科省、謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を大切にする。

修身6.広くすべての人に愛の手をさしのべましょう 文科省、だれに対しても思いやりの心をもち,相手の立場に立って親切にする。
 修身7.勉学に励み、職業を身につけましょう、文科省、働くことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。

修身8.知識を養い才能をのばしましょう、 文科省、真理を大切にし,進んで新しいものを求め,工夫して生活をよりよくする。

修身9.人格の向上につとめましょう 文科省、自分の特徴を知って,悪い所を改めよい所を積極的に伸ばす。
修身10.ひろく世の人々や社会のためになる仕事にはげみましょう、文科省、働くことの意義を理解し,社会に奉仕する喜びを知って公共のために役に立つことをする。

修身11.法律や規則を守り社会の秩序にしたがいましょう、文科省、公徳心をもって法やきまりを守り,自他の権利を大切にし進んで義務を果たす。

修身12.正しい勇気をもってくにのため真心をつくしましょう、文科省、身近な集団に進んで参加し,自分の役割を自覚し,協力して主体的に責任を果たす。

 

みなさん、修身と文科省、道徳の学習指導要領とどちらがわかりやすいですか。どちらが簡潔明瞭で、覚えやすく、すぐれているかすぐにわかりますね。

 それではもう一度佐久間艇長の遺書に戻ります。

実はちょうど同じころイギリス海軍でも同じような潜水艇の事故が起き、乗員が我先に入口に殺到して折り重なった状態で引き上げられました。日本でも同じことが起きているだろうと皆思っていました。ところが第六潜水艇の場合は、違いました。13名全員が、それぞれ、も持ち場についた状態で絶命していました。さらに官長の佐久間大尉31歳は、手帳に39ページにわたり鉛筆で遺書を残していました。読みます「小官の不注意により、陛下の艇を沈め、部下を殺す、まことに申し訳なし、されど艇員一同、死に至るまで皆よろしくその職を守り、沈着に事を処セリ、我らは国家のため、職にたおれしと言えども、ただただ遺憾とするところは、天下の士はこれを誤りもって、将来潜水艦の発展に打撃をあたうるに至らざるやを憂うるにあり。省略します、謹んで陛下に申す、我が部下の遺族をして、窮するもの無からしめ賜らんことを、我が念頭にかかるものこれあるのみ、・・・省略します。12時30分呼吸非常に苦しい、ガソリンをブローアウトせしし、つもりなれども、ガソリンにようた、ひとつ、中野大佐、12時40分なり、筆は、ここで途絶えています。この話は、外国人特派員から海外に伝わり世界の多くの人々が感動しました。

東京書籍によく戦争反対の象徴のように取り上げられる、歌人与謝野明子も、この事故に心を動かされた一人です。勇ましき 佐久間大尉とその部下は 海国の子に たがわずて死ぬ」とうたいました。また、夏目漱石も感動した一人だったのです。

今の道徳教科書で、皆さまのお子様に、感動することがあるかどうか、聞いてみてはいかがでしょうか。そしてご父兄、保護者の皆様もぜひ道徳や歴史の教科書に目を通してみてください。この動画をご覧になって、もし何かお感じいただければ、副読本として「13歳からの道徳教科書」や自由社の中学歴史教科書を、お子様に学ばせてはいかがでしょうか。私たちは小学生高学年から使っています。

「おとなが知らない各社教科書の違い」戦争とスパイ


「大人が知らない教科書の違い」戦争とスパイ 今回は、だれが日本の総理大臣でもあの戦争、支那事変(日中戦争)と大東亜戦争(太平洋戦争)は、避けることはできなかったのではというお話です。

第6回 大人が知らない教科書の違い【戦争とスパイ】

支那事変(日中戦争)については、youtube動画「大人が知らない教科書の違い」【中国の台頭と米中激突】でおはなししていますのでそちらをご覧ください。URLはコメント欄に記載しています。

多くの歴史教科書の記述は、一言でいえば、あの戦争は、侵略戦争で、軍部が独走したというイメージをいだかせるような記述になっています。マスコミの論調も同じで、もはやテンプレートになっています。例えば、学び舎238ページでは以下のように記述されています。「日本は、石油など戦争に必要な資源獲得のために、東南アジアへの進出をめざしました。・・このことは米英との対立を深めました。1941年、アメリカは、日本に対する石油の輸出を禁止し、日本軍は中国とインドシナから撤退すべきだと外交交渉で要求しました。日本はこれを拒否して、米英に宣戦布告したのです」と。しかし、どの教科書も大事なことが書かれていません。当時も今も日本は、石油を輸入に頼っています。なんと当時は、アメリカから輸入していました。石炭で軍艦が動く時代は、日本海軍は世界最強の海軍でした。しかし、石油の時代になってからは重油がなければ軍艦は動きません。航空機ガソリンもアメリカから輸入していました。少し考えればお分かりいただけると思いますが、石油や航空機ガソリンを売ってくれている相手に戦争を仕掛ければどうなるでしょう。つまり日本にとっては、アメリカと戦争をせず、経済的関係を深くすることが当時重要だったはずです。しかし、相手があることですから、いくらこちらが仲良くしようと思っても相手がいじめてやろうと思ったら付き合うのは容易ではありません。話は、日露戦争が終わったところまで遡ります。

明治41年、1908年10月16隻の戦艦からなるアメリカ大西洋艦隊が、世界一周の航海の途中、日本にやってきます。当時の日本は全部で9隻の戦艦ですからこれは大艦隊です。日本政府はこれを威嚇外交と察知しましたが、外交儀礼上歓大迎しました。アメリカは、フィリピンを植民地としていましたから、日露戦争に勝った日本は、太平洋をはさんだライバルになったのです。

1913年カリフォルニア州で、日本人が新たに土地を購入することをできなくする、排日土地法が制定されます。この年の選挙ポスターには、排日のsailent invasionのキャッチが使われます。

1920年、日本もイギリスも破棄を望んでいませんでしたが、アメリカの強い意向で、20年間続いた日英同盟が破棄されました。これにより日本は単独でアメリカの軍事力に対抗しなければならなくなりました。

大正13年1924年には、排日移民法が成立し、アメリカは、日本人の移民を全面的に禁止にしました。これには日本の世論も怒りました。

1929年、ニューヨーク株式市場が大暴落して世界恐慌が始まりました。欧米諸国は、植民地を持っているので地域をブロック化し、外国の製品に高い関税をかけて締め出しました。物が売れなくなると会社や工場は苦しくなり、失業者が増えてしまいます。日本も欧米と同じように、製品の輸出先を確保するため、東アジアに独自の経済圏を確立しようとしました。

昭和13年1938年東亜新秩序構想を近衛文麿首相が発表します。不況が長引くアメリカは、これに強く反発し、認めませんでした。Win winではなく、アメリカが失業者を減らすか、日本が失業者を減らすかです。1年前の1937年8月13日には、日本がむりやり戦争に押し込まれ、日支紛争(支那事変)が始まっていました。これは当時上海にいたニュヨークタイムズ特派員が報じた内容です。・・・この発表以後アメリカは公然と蒋介石を支援します。日米戦争の種がまかれました。

1939年アメリカは日米通商条約を延長しないと圧力をかけてきました。石油をはじめ多くの物資をアメリカから輸入していた日本はたちまち苦しい立場に追い込まれます。このままですとアメリ

カの輸出業者も苦しくなりますが、日本はそれを加工して輸出して外貨を稼いでいるのでそれがで

きなくなります。町は失業者であふれるのは目に見えています。

同じ1939年ドイツはソ連と不可侵条約を結んだ上で、ポーラント侵略します。ここでドイツとソ連は、密約した通り、ポーランドを分割しました。英仏はドイツに宣戦布告、第二次世界大戦がはじまります。

1940ドイツの勝利を受けて、日本は、日独伊三国同盟を締結します。しかし、遠いヨーロッパの2国との軍事同盟は、実質的効果はなく、イギリスを支援するアメリカとの関係を決定的に悪化させました。米国は中国にフライイング・タイガーズという戦闘機部隊を送り込み、日本軍の隼と空中戦をするわけです。まだ日米開戦前です。ここで日本は、外交的に守勢に立たされます。

1941年ソ連と日ソ中立条約を結び、これと三国同盟の2つの条約の圧力で、アメリカから譲歩を引き出そうとします。しかし、ドイツがソ連に侵攻し、ソ連は連合国側に加わり日本の狙いは破綻します。こうしてみると、日本外交はなんと戦略のない、場当たり的な拙いものかと言いたくなるほどです。ここで日本は、詰んでしまいます。あとはアメリカが仕上げに、石油の輸出を禁止すれば終わりです。日本はあわててインドネシアに油田を持つ、オランダと輸入交渉を始めます。でもアメリカが手を回していますから交渉は成功しません。これから日米交渉が始まるのですが、もう外交的に詰んでる日本を、アメリカは相手にしません。戦争準備は、だいたいできているわけです。ソ連のスパイ、ホワイトが書いたといわれるハル・ノートを日本に渡して日米交渉は終わります。

失敗の原因は、ドイツとソ連を信じてしまったことと、何よりも当初の作戦計画の通りにしなかったことではないでしょうか。戦争は、決定するまでの間は、なんとか戦争を回避する方法を政治的に、外交的に模索します。しかし、いざ開戦となったら直ちに戦闘をしなければならない担当部署は、いつ開戦決定がなされてもいいように、常日頃作戦計画を事前に立てておかなければなりません。立てていなければ仕事をしていないわけです。当たり前ですが、その作戦計画が実施されなければそれに越したことはありません。ついでに申し上げますと満州事変後、北支から入るテロリスト、工作員蒋介石の北伐軍の略奪から人々をどう守るかも、陸軍の仕事でしたから命令があればこう実行しますというA案、B案、C案を作っておくことも関東軍の仕事です。その中には「北支那占領地統治計画」というものもあるわけですが、あくまでも計画書であってこれをもって、直ちに侵略したことはならないわけです。尖閣諸島が偽装中国漁船に占領されたとき、自衛隊や海保はどうするかという作戦計画は、当然あるでしょう。なければ仕事をしていないわけです。日本も米国も戦争する前から担当部署は、作戦計画書を用意していました。わが国は「帝国国策遂行要領」(1941 年11 月1)と「対英米蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」(1941 年11 月15)です。米国側の文書は「勝利計画」(Victory Plan or Program、1941 年9 月)です。これらの内容はここでは論じません。ただ言えることは、アメリカは作戦計画とおり実行して戦争に勝ち、日本は、計画とは乖離した作戦を無理に実行し負けたということです。日本の計画では、長期自給の体制を整備し、引き分けか、少なくても負けない体制を作るというものでした。しかし、実際は短期決戦をして、海軍は、ミッドウエーで、虎の子の空母を失ってしまいます。

しかし、誰が総理大臣であっても、いろいろな方面から工作がなされ、こうなってしまったのでしょう。スパイの工作は公文書公開でも出てきません。わずかに特高警察がとらえた、近衛内閣側近、朝日新聞の元記者尾崎ほつみとソ連のスパイだった、ゾルゲなどの名前が明らかにされているくらいです。内閣の側近にまでスパイが入り込んでいたくらいですから、陸軍省海軍省の軍官僚の中にもいたでしょう。国策の誘導も不可能ではありません。当時もいまも、なぜか外国スパイの手先になる日本人が多いのは情けないことです。この国のゆくべき道を再び誤ることがないように願うばかりです。