手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

「大人が知らない教科書の違い」【なぜ今再び大東亜会議か】


「大人が知らない教科書の違い」【なぜ今再び大東亜会議か】

 

大東亜会議を正しく記述すると、日本は侵略をした、アジア諸国に多大な損害を与えたという、ストーリーが成り立たなくなります。この大東亜会議の精神は、昭和40年、1965年の、第1回バンドン会議、(アジア・アフリカ会議みごとに引き継がれました。しかし、大東亜会議やバンドン会議の精神に、反する国がまだアジアにあり、その支配から逃れたいという民族が、まだいるのです。そして彼らは、救いの手を今も待っているのです。
 大東亜会議、あの頃の力はもう日本にはありません。あの時、英米が賢く振舞い、日本と協調していれば、今、中国共産党はなく、原爆も落ちず、ウイグル人も、チベット人も、朝鮮半島も、今よりも平和だったはずです。ですから英米の責任は重いのです。しかし、もしそうなれば植民地からの独立は、なかったかもしれません。

わが国は、大正8年、1919年、第一次世界大戦後の、パリ講和会議で、世界で初めて、人種平等を国際連盟規約に、盛り込むよう提案しました。世界の有色人種は、この決議に期待したのです。投票の結果、11対5で、賛成が多数を占めましたが、議長役のアメリカのウイルソン大統領は、重要案件は全会一致を要するとして、決議の不採択を宣言しました。当時世界は、まだ白人が、有色人種よりも優れていることが、彼らの常識でした

次に日本が、英米、欄に挑戦状をたたきつけたのが、この大東亜会議でした。これは大東亜会議、70周年記念講演の一部です。アジアにはまだ植民地支配をされ、人種不平等な人々が、ウイグルチベット、モンゴルにいますという悲痛な訴えです。学び舎の教科書にも、東京書籍にも、大東亜会議という文言はありません。もちろんウイグルチベットの説明もありません。高校山川、詳説日本史Bには、大東亜会議が少し載っています。

しかし、その説明は、およそ正確とは言えません。まず高校山川の記述を読みます。1943年(昭和18年11月、東条内閣は、占領地域の戦争協力を確保するために、満州国や中国(南京の汪兆銘政権、タイ・ビルマ・自由インド・フィリピンなどの代表者を東京に集めて、大東亜会議を開き、「大東亜共栄圏の結束を誇示した。

しかし、欧米列強にとってかわった日本の占領支配は、アジア解放の美名に反して、戦争遂行のための資材・労働力を最優先するものであったので、住民の反感・抵抗がしだいに高まった。

東南アジアの占領地では、現地の文化や生活様式を無視して、日本語学習や天皇崇拝・神社参拝を強要し、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設、土木作業などや鉱山労働への強制動員もおこなわれた、と記述して、肝心な大東亜会議とはなにか、詳しく記述されていません。アジアの国がいつ、どのように独立したのかも書かれていません。これでは生徒さんたちは、誤解してしまうのではないでしょうか。

みなさんは、前回の「大人が知らない教科書の違い」【植民地からの独立】をご覧いただくことで、植民地の独立に、日本軍がどうかかわったかを学ぶことができます。それでは自由社の中学歴史教科書では、大東亜会議がどう説明されているでしょうか。「日本の緒戦の勝利は、白人の植民地支配に苦しんできた、東南アジアやインドの人々に、独立への夢と希望をあたえた。日本軍の破竹の進撃は、現地の人々の協力があってこそ可能だった

親日国だったタイに加えて、日本軍の捕虜となった、イギリス軍のインド人兵士を中心として、インド国民軍が結成され、インドネシアビルマでも、日本軍の指導で軍隊がつくられた。この軍組織が、のちに建国の中核になった、次は小見出し、大東亜会議です。「以前からアジア各地の独立運動家が、日本に亡命し、多くの日本人がこれを支援していた。戦争が始まると日本は、占領下に置いたアジア各地域に、戦争への協力を求めた。

現地の人々は、将来の独立を期待し、これに応えた。さらに、その結束を示すため、1943年(昭和18年11月、東京で大東亜会議を開催した。会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して、大東亜共同宣言が発せられ、大東亜共栄圏の建設を戦争目的とした。どうですか。高校山川の大東亜会議の説明と比べて、どちらがわかりやすいですか。ここで自由社の側注を見てみます。

「日本は1943年、ビルマ、フィリピンを独立させ、自由インド仮政府を承認した(大東亜会議に出席」。1945年にはベトナムカンボジアラオスを独立させた、と記述しています。さらにその下には、大東亜共同宣言の一部要約が載っています。ひとつ、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、大東亜の親和を確立する。ひとつ、大東亜各国は万邦との交誼を篤くし、人種的差別を撤廃し、世界の進運に貢献する。どうですか。

インドはイギリスの植民地、ベトナムラオスカンボジアはフランスの植民地でした。インドネシアは、オランダ、フィリピンはアメリカの植民地でした。白人の自由平等をうたう太平洋憲章に対し、有色人種の代表が東京に集結し、植民地からの独立と、人種平等を高らかに宣言したのです。なぜか学び舎も東京書籍も山川も、フィリピンがアメリカの植民地だったことを書きません。

英国や米国、オランダとしては、絶対に許せる行為ではなかったでしょう。ここまで読み比べると、高校山川と中学自由社の教科書の、どちらがわかりやすいか、また正確に記述されているかわかりますね。日本の敗戦により、旧宗主国のイギリス、フランス、オランダは、直ちに再支配するために戻ってきたのです。これだけで太平洋憲章は、誰のためのものだったのか分かります。

しかし、これらの地域は、その再植民地支配に立ち向かって、次々と独立を達成しました。日本軍の将兵の中には、終戦後も現地に残り、現地のひとたちとともに、独立戦争を戦ったひとが多数いました。自由社の教科書に書かれている、この日本の軍政下の施策とは、小学校や技術訓練の学校を設立したり、民衆を奮い立たせる教育を実施したことです。

山川の364ページで「ことにシンガポールやマレーシアでは、日本軍が多数の中国系住民(華僑)を反日活動の容疑で殺害するという事件も発生した。その結果、日本軍は、仏印・フリピンをはじめ各地で組織的な抗日運動に直面するようになった。と記述しています。しかし、自由社は、241ページでこのように記述しています。「日本語教育や神社参拝を強いたことに対する反発もあり、連合国と結んだ抗日ゲリラ活動が起きた。

日本軍はこれにきびしく対処したので、民間人もふくめ、多数の犠牲者が出た。と記述し、さらに側注でその理由を説明しています。武器を公然と停滞せず、民間人の服装をして攻撃する、いわゆるゲリラのテロ行為は、戦時国際法によって禁止されており、捕まった時捕虜としての保護を受けられない、と考えられていた、と記述しています。華僑の場合は、殺人事件ではなく、イギリス軍のスパイとして逮捕、裁判の結果処刑されたのです。

さとうささら,山川はここを敢えて書いていません。山川日本史で学んだ高校生は、日本が欧米のアジア植民地を占領支配し、代表者らに独立の夢を与えて、東京に集め、大東亜会議を開いた。しかし、結局占領地で悪事を働き、かえって、反感を買い、抵抗された。そのうち日本は負けて、植民地はいつのまにか独立した。このように記憶にとどめるのではないでしょうか。しかし、中学自由社で学んだ生徒は、大東亜会議を正確に記憶するでしょう。

なぜ東京書籍や学び舎には、大東亜会議の記述がなく、山川日本史には、ごくわずかな記述しかないのでしょうか。つまりアジアの植民地は、なぜ独立したかという答えの始まりが、大東亜会議ですから、東京書籍などの教科書は書かない、山川日本史も、「アジア解放の美名に反し、住民の反感、抵抗が次第に高まった」と記述する以外ないのでしょう。私たち、日本人も戦後の教育ですっかり、大東亜会議を忘れさせられています。

日本は、自存、自衛のために戦争を決定しましたが、大東亜会議でこの戦争目的が、大東亜共同宣言を実現するための、大東亜共栄圏の建設と定まったのです。そして日本は、占領地を広げていき、現地の人々は、日本軍と英軍、オランダ軍、米軍との戦いをみて、独立の決意が固まっていったのは確かでしょう。日本軍はそれを支援しました。