手奇塾のブログ

大人も知らない各社歴史・公民教科書の違いをわかりやすく徹底比較します。

「キャンセルされた歴史を取り戻す」これでも侵略か 第11回 大東亜戦争とアジアの独立(後編)

 

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  谷豊という当時3歳の日本人一家も福岡県から、マレー半島南部の州都、トレンガヌに移住して,クリーニング店と床屋を営んでいました。  満州事変が起こると、それを口実に、トレンガヌ一体にも排日の動きがでてきて、華僑が日本人の商店を襲って、略奪、投石をするようになりました。 昭和7年、1932年11月の事でした。豊青年は、徴兵検査で日本に帰国、幼い妹は風邪で一人とこに臥せていました。悲劇はこの時起きました。 ひとりの華僑が妹の首を青龍刀で切り落とし、反日デモの中でそれをかざしたのです。 返ってきた豊青年はこのとき誓ったのです。華僑と、背後で反日を煽っているイギリスに復習すると。 谷豊はその後、表向きはゴムの仲買商人でしたが、華僑、イギリス軍を敵に回して荒らしまわる、盗賊数百名の親分となっていました。 イギリスと結び、現地の経済を支配していた華僑をこらしめ、病気や貧しい者を助け、現地のひとには大の人気者でした。 彼は、マレーの虎ハリマオと、イギリス人や華僑には、恐れられるようになりました。 つかまって刑務所いきになりますが、直ぐに仲間が助け脱獄してしまいます。彼は、日本軍の諜報組織の目に留まり、賄賂を使いタイの刑務所を出ます。その後彼は、部下とともに、その諜報機関に協力するようになりました。  軍隊は命令があれば直ちに戦をしなければなりません。平和な時でも訓練をしたり、作戦を考えたり、いざというときに備えるのが軍の仕事です。 ソ連に対しては、作戦は整っていたのですが、南方での戦いは、想定していなかったのでできていませんでした。 それもアメリカが石油を輸出してくれるという前提です。ところがアメリカの動きが怪しくなっていきます。 それまでもアメリカの排日政策は続いていましたが、1937年5月頃からアメリカは、中立を破り、日本と戦う蒋介石政権に対し、軍事援助を強めていました。  このままでは石油を断たれるかもしれない。日本軍は事前に、南方での諜報活動を始めたのです。 地図はもちろん、道路や河川や食糧事情、飲料水の有無、風土病、ジャングルの中の害虫や毒ヘビまで調査しておく必要がありました。 1940年(昭和15年)9月、とうとう日本は、英米をけん制するために三国同盟を締結します。 実際アメリカが石油の輸出を禁止すると、日本はオランダと石油輸入の交渉をはじめますが、アメリカが裏から手をまわしてオランダも売ってくれません。 アメリカの要求は、ハルノートに書かれていたように、一言でいえば、日本は中国大陸市場から撤退せよということでした。 このままでは日本は石油危機となり、電気は止まり、工場は操業を停止し、街には失業者が溢れ出ます。餓死者も出たでしょう。 のちにマッカーサー自身が、1951年にアメリカ軍事外交合同委員会で、日本の戦争理由の大部分は、安全保障だったと証言しています。 それでは、実際に植民地にされ、その後独立した国の人々は、日本をどう思っているのでしょうか。 ミャンマーのバーモウ初代首相は、著書「ビルマの夜明けで、歴史を見るならば、日本ほどアジアを、白人支配から解放させることに貢献した国はないと書いています。 インドネシアの首都ジャカルタの独立広場には、大きな碑が立っていて日付が17-8-05と書かれています。 独立した8月17日です。05は西暦ではなく、日本に敬意を払い、皇紀2605年と刻まれているのです。 これは防衛省にある、インドネシアから送られたスデイルマン将軍の像です。独立戦争では、日本兵とともに戦った最高司令官です。毎年8月17日に献花式が行われます。  タイのククリット・プラモードもと首相は「12月8日と題して、次のように大東亜戦争を回顧しています。 日本のおかげでアジア諸国は、すべて独立した。日本というお母さんは難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。 12月8日はお母さんが一身を賭して重大決心をされた日である。さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病に伏した日である。この二つの日を忘れてはならない。  台湾の李登輝もと総統の秘書をされた、早川友久氏によれば「李登輝は、いつも言っていた、台湾にとって日本はなくてはならないが、日本にとっても台湾はなくてはならないんだと。 だから「台湾のことはまかせましたよという言葉は、日本人の私たちにも向けられた言葉だということを忘れてはならない。この言葉こそ、李登輝の遺言だとおっしゃっています。  これは台湾の有事は、日本の有事であるということでしょう。アジアにはこのような国々があることを、私たちは知っていなければなりません。 それでは、第11回、大東亜戦争とアジアの独立、後編を終わります。
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キャンセルされた歴史を取り戻す」これでも侵略か?【手奇塾】第10回 大東亜戦争とアジアの独立

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キャンセルされた歴史を取り戻す、これでも侵略か、第10回は、大東亜戦争とアジアの独立です。

第二次世界大戦は、1939年9月に、ドイツがポーランドに武力侵略したため、イギリス、フランスが、ドイツに宣戦布告。こうしてヨーロッパでの戦争が始まりました。

日本が英米、オランダ、オーストラリアと戦った、太平洋インド洋での戦いは、それから2年以上もたってからでした。

この間まだ大陸で、日本と蒋介石との戦争は続いていましたが、下火になっていました。しかし、英米の日本に対する圧力は、日増しに強まっていきます。

この時の日本の戦争を太平洋戦争といったり、侵略戦争というのが、今までの学校教育でした。そして自由社以外の教科書には、日本の戦争がアジアの植民地を開放したとは書かれません。

中国への侵略の始まりは、満洲事変からとか、朝鮮半島への日本の侵略の始まりは、朝鮮併合とかいろいろな言い方がされています。しかし、これらは中国やイギリス、アメリカ側の見方、朝鮮側の見方と言えるでしょう。それらは自国にとって都合の良い、日本人に罪悪感を植え付け、ひ弱な日本のままにして、日本から利益をむしり取るための政治宣伝といえそうです。

蒋介石政権が日本に戦争を仕掛けたことは、すでに日中戦争でお話ししました。1898年にアメリカはフィリピンを、それ以前にイギリスは、インド、マレー半島など、オランダはインドネシアを武力で支配し、植民地として、現地住民を奴隷のように安い賃金で働かせていたのです。日本も江戸時代あるいはその前に、へたをすれば欧米の植民地にされていたかもしれません。

そうならなかったのは運がよかったのではなく、我々のご先祖が強く、賢かったからとしか言いようがありません。日本は、日清・日露戦争第一次世界大戦をへて、強大な軍事力を身に着け、国際社会に登場してきたわけです。それを英米ソ連は恐れ、警戒し始めます。しかし、彼らは日本の弱点がエネルギー、つまり、石油であることを知っていました。

いざとなったら、日本への石油輸出を止めれば、軍艦、飛行機は動かず、日本は言うことを聞かざるを得ないと考えていたはずです。いざ戦争になっても、小競り合いていどで、まさか彼らの植民地支配が終わるなどとは、夢にも思っていなかったでしょう。日本は、1919年、大正8年第一次世界大戦後のパリ講和会議で、人種差別の撤廃を提案しました。

国際会議で、こうした人種差別の撤廃を訴えたのは、日本が歴史上初めてでした。植民地支配をしている英米は、当然賛同せず、特にアメリカはこの提案を潰してしまいます。この頃は日本人も、白人と同等に扱われていませんでした。アフリカもアジアもアパルトヘイト、人種差別が常識でした。「そんな国際連盟なら参加する必要はない」という強硬な意見も当時あったそうです。

アメリカは、1924年、日本人移民を禁止する排日移民法を制定し、日本の対米国民感情は悪化しました。わが国は第1次世界大戦で、地中海に駆逐艦隊を派遣して、ドイツのUボートから英国商船を護衛したり、チンタオのドイツ軍を攻撃し、占領したりして、戦勝国となりました。

このころは日本の商社など、企業や個人も経済的に力をつけて、ドイツの権益を受け継いだ、南太平洋や今のマレーシアー、インドネシア、フィリピンなどに進出していました。そのためすでに商権を確立して、一大勢力になっていた華僑や、東南アジアを植民地支配していた欧米諸国にとても警戒されるようになったのです。彼らは、満州事変、続く満州国建国を反日宣伝に利用しました。華僑とは、中国籍のまま海外に移住した中国人です。

たとえばこのような例がありました。マレーシアは、イギリスの植民地でしたので英領マラヤ、通常マレーと言っていました。谷豊という当時3歳の日本人一家も福岡県から、マレー半島南部の州都、トレンガヌに移住してクリーニング店と床屋を営んでいました。満州事変が起こると、それを口実に、トレンガヌ一体にも排日の動きがでてきて、華僑が日本人の商店を襲って、略奪、投石をするようになりました。

昭和7年、1932年11月の事でした。豊青年は、徴兵検査で日本に帰国、幼い妹は風邪で一人とこに臥せていました。悲劇はこの時起きました。

後編に続く

「最門司さくらの憂国日記」 【手奇塾】第21回 台湾有事と日本の危機

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今回の「最門司さくらの憂国日記」は、力の均衡、台湾有事と日本の危機についてお話しします。産経新聞によれば、中国の習近平氏は、10月9日、辛亥革命110年の記念演説で、台湾問題は完全に中国の内政で、外部のいかなる干渉も許さないと強調し、祖国の完全統一という歴史的任務は、必ず実現しなければならないと述べたそうです。また、イギリスBBCニュースも同じく、中国と台湾の緊張:習近平氏は「統一」が実現されなければならないと述べたと伝えています。中国が、いつのまにか台湾や尖閣諸島を自国領土と主張するようになりました。漢民族満州人の清朝から独立した辛亥革命では、漢人による満洲人の虐殺が1週間も続いたといわれています。これは決して教科書には書かれません。満州人は満州国の崩壊とともに滅んでしまったのでしょうか。かわの前統合幕僚長は、台湾有事になれば沖縄、奄美も戦域になるのは軍事的に常識とおっしゃっています。台湾国防部の発表によれば、10月1日の昼に延べ25機、そして夜に延べ13機、合計延べ38機の中国軍機が、防空識別圏に侵入したそうです。これは1日に確認された中国機の侵入としては過去最大だったそうです。さらに翌日2日には昼に延べ20機、夜19機、さらに10月4日には、52機が侵入したと発表しました。またも過去最高を更新したのです。昨年、台湾のADIZに進入した中国軍機は、計380機でしたが、今年はすでに600機を超えたそうです。確実にエスカレートしています。これについて台湾の新聞報道では「国慶節に合わせ、中国軍が軍事力を見せつけたのと同時に、夜間に第1列島線の外側で、台湾や他国の海軍と空軍の部隊を攻撃する能力があることを示している」という専門家の分析を伝えています。この他国のという意味は、明らかに今南シナ海に展開している、西側諸国の空母部隊を指しています。また、台湾の国防部は8月末に「台湾の南西沖を中国軍の訓練区域として取り込み、台湾軍の活動空域を狭めたり、防空の負荷を増やしたりしようと企てていると言っています。日本では9月に台湾がTPPに参加申請をしたため、中国が怒ったからという報道もあります。しかし、今中国は、電力不足や大手不動産会社の巨額債務返済問題を抱え、国民の不満は高まっているでしょう。民間企業の報道事業を禁止にする予定とか、国内の締め付けもエスカレートしています。もはや言論はおろか報道さえも自由が無くなりつつあります。台湾に対する軍事的圧力を高めて緊張をエスカレートしている理由は、この辺も関係しているのではないでしょうか。もしそうであれば今の緊張は高まるばかりで、緩和する可能性は低いのではないでしょうか。まさに少しづつ、台湾の空域を切り取っていく、中国のサラミ作戦です。台湾進攻のためには、どうしても制空権と制海権を中国側が握らなければなりません。現在の中国機による台湾空軍や西側艦隊に対する猛烈な圧力は、制空権は必ず中国がとるという意思を示しているのかもしれません。台湾と与那国島の距離は111kmです。天気が良ければ見えることもあるようです。この距離は、今の戦闘機であれば15分で飛べる距離です。台湾軍機も中国軍機もスクランブル中は、日本の防空識別圏など無視して侵入するかもしれません。この時わが国はどう対応するのでしょうか。航空自衛隊の中国軍機に対するスクランブル回数がこの3年平均で、約680回という数字も十分に異常ですが、最近の台湾海峡は、日本よりもさらに異常な状態にあることが分かります。これは航空自衛他のスクランブル回数のグラフです。2020年の中国軍機へのスクランブルの減少について防衛省の担当者は、「対象になるような距離まで近づいてくる航空機は減ったが、遠い空域での飛行は続いている。中国機の活動は引き続き活発だ」と話しています。先の総裁選の討論会で高市氏が発言した、敵基地攻撃能力の保持とは、わが国や台湾の防衛に、米軍の後方支援という限定的な軍事行動ではなく、積極的に、且つ主体的に台湾と先島、尖閣諸島を防衛する、自衛権の範囲で行う抑止戦略といえるのではないでしょうか。敵ミサイルから自国を防衛できなければ抑止力を高めることが必要です。つまり力の均衡です。これはわが国が開発中の長射程弾道ミサイルの射程距離を示した図です。最終的には北京と平壌が射程距離に入ります。抑止力のボタンをわが国は、他国にたよることなく、持つことになります。また、我が国の外交方針も少しづつ変化しています。令和3年4月、菅首相とバイデン大統領の首脳会談の共同声明では、初めて中国を名指しで非難したのです。「経済的および他の方法による威圧の行使を含む、国際秩序に合致しない中国の行動について懸念を共有した」と明記されました。また令和3年のわが国防衛白書では「台湾をめぐる情勢の安定は、わが国の安全保障にとってはもとより、国際社会の安定にとっても重要」と言っています。いままで政府は、台湾という表現ではなく、台湾海峡と言ってきました。しかし、今回の防衛白書では遠慮せずに台湾と表現しているのです。6月に、中山泰秀防衛副大臣は米ハドソン研究所でのオンライン講演で「我々は民主主義国家としての台湾を守る必要がある」と主張しました。7月5日の講演で、麻生太郎副総理兼財務相は、中国が台湾に侵攻した場合、安全保障関連法が定める存立危機事態として認定する可能性があるという考えを表明しました。存立危機事態になれば、日本が直接攻撃を受けなくても「我が国と密接な関係にある他国」に対する武力攻撃が発生したと政府が認識し、限定的な集団的自衛権を行使できます。制約はありますが、オーカスやクアッド諸国の軍隊に自衛隊が協力できるわけです。麻生副総理の発言は、もし中国が、台湾に武力攻撃をした場合、日本は、自国の存立危機事態とし、限定的な集団的自衛権を行使しますよという中国に対する脅しともとれます。これには早速中国が、日本はけしからんと怒り、中国が日本を核攻撃するyoutube動画を発信し、わが国民を恫喝しましたが、わが国のマスコミはこれを無視しました。さて、国民が注目した自民総裁選挙でしたが、岸田内閣が成立しました。この内閣の内に中国が台湾に侵攻するかどうかわかりません。しかし、防衛大臣外務大臣が再任され、クアッド諸国や英国との意思疎通は途切れず、継続されることになったことは米国や欧州も歓迎するでしょう。今後中国は、台湾に対する圧力をさらに高めていくのではないでしょうか。いざというとき専守防衛では、自衛隊の犠牲が大きくなる危険があります。ミサイルの時代、専守防衛ではもはや台湾はおろか自国の防衛さえ心もとない状況です。政府は昨年12月の閣議決定で、敵基地攻撃能力をめぐる検討の無期限延期を決めましたが、私たち国民は、憲法改正や敵基地攻撃能力保持が、待ったなしということをもう理解しなければならないのではないでしょうか。次の総選挙で国民の判断を仰いていただきたいものです。

「キャンセルされた歴史を取り戻す」安全保障 日清・日露&支那事変・大東亜戦争

 

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 今回は「キャンセルされた歴史を取り戻す」わが国の安全保障です。第一次戦の前は、ドイツが世界の敵になりました。第二次戦の前は、日本が世界の敵になりました。第三次戦はソ連との冷戦という見方もあります。それでは第四次戦は、中国が世界の敵になるのでしょうか。今のところはそうなっていくように見えます。それでは日清戦争から大東亜戦争まで、戦争に至る国際情勢を見ていきます。

 明治維新後日本は、条約改正や国境の画定など、外国との外交交渉は、忙しかったはずです。周囲は欧米の植民地でした。国内産業保護育成で、できれば戦争などにお金を使いたくはなかったでしょう。日本軍は始めから強かったわけではなく、開戦の時でもわが国の兵力は、清国に比べこのように劣勢でした。この兵力差では、必ず勝てると言う自信はなかったでしょう。

明治15年、1882年、軍近代化に不満をもった、朝鮮の軍人が起こした反乱、壬午事変では、日本公使館が襲撃され、館員が殺害されました。2年後の改革派のクーデターの甲申事変では、クーデターを平定しに来た清国の軍隊と、公使館、領事館保護に派兵した日本側と戦闘になり、将兵と多くの在留邦人が犠牲になりました。この紛争で日本は、2度清国に負けているのです。

 朝鮮は、清のさくほう体制に入った属国で、朝鮮の問題は清の国内問題でした。日本は逆に、清の言いなりになる朝鮮では困るので、清から独立して欲しいわけです。過去元寇のように大陸の王朝と朝鮮が一緒になって、日本に攻め込んできたことがあるからです。学問のすすめを書いた福沢諭吉も、清や朝鮮も近代化をして、西洋列強に侵されない独立した国になることを望みました。

大国清だけではなく、東に向かってシベリア鉄道を建設するロシアの脅威も日本は感じていたのです。日本の安全保障上、朝鮮半島の自存自衛は日本にとって最も重要なことでした。豊臣秀吉の時代の明も、同じだったのかもしれません。清国は日本を見下して、一歩も譲りませんでした。日本は、欧米列強の極東での外交政策をにらみながら、仮想敵国となった清との戦争に備えたのです。

10年後、半島で大規模な宗教的農民一揆が起こり、清国は一揆を平定するために出兵、日本も公使館、在留邦人保護のため、軍隊を派遣しました。アジアに植民地を持っている欧米列強は、隙があれば介入してくるはずです。正に日本外交の正念場でした。日本がうかつに動けば、ロシアがスキを狙って北海道に攻め込むかもしれません。列強各国との腹のさぐり合い、日本側の必死の外交交渉の結果は、どちらも譲らず日清両国の戦争でした

 日露戦争では、ヨーロッパ諸国は、ロシアと戦うにはあまりにも日本は小国とみていました。ロシアは、この時日本の10倍の国家予算と軍事力を持っていました。ちなみに中国の数字は怪しいのですが、2020年の中国の名目GDPが、1570兆円。日本が538兆円ですから、日本の約3倍。日本はなんとか外交交渉で戦争を避けようと努力しました。元老の伊藤博文山県有朋も、初めはロシアと協調せざるを得ないとみていました

ロシアも、ヨーロッパやアフガン、黒海方面で、ドイツやイギリスと対峙していて、極東に大兵力を送って争いを起こすことは、望ましくないと考えていたかもしれません。 しかし、1900年、義和団の乱がおき、シベリア鉄道の支線で旅順まで行く、東清鉄道に大きな被害を受けたため、ロシアは、満州にも軍隊を派遣、駐留していました。

これに対し、日本、イギリス、アメリカなどはロシアに抗議しましたが、完全には撤退しませんでした。旅順には要塞ができ、満洲、朝鮮国境の朝鮮側にもロシアの軍事基地ができました。ここで元老の山県や桂首相・小村外相や陸海軍の首脳部は、戦争になることを覚悟しました。それでも戦争に負けた時のことを考えたのでしょう、元老の伊藤や井上馨は、ロシアに満州での一定の権益を認めるという、戦争回避論を主張しました。

 外交で日本は、だんだんとロシアに譲歩していきます。そして日本側は 1903年6月、御前会議を開き、ロシアとの外交交渉の条件を決めたのです。外交交渉の条件から満洲を外すとか、朝鮮の北部に中立地帯を設けるとか、なんとか戦争回避に必至となります。日英同盟があっても、軍備増強や猛訓練でも、勝つ自信は薄かったのでしょう。必死の外交交渉にもかかわらず、日本の指導者達は戦争に追い込まれていきます

最後まで戦争に反対だった伊藤博文は、日露開戦と決まった後は、つぎのような言葉を残しています。吾輩も国民軍に入り、自ら銃を肩にして海岸を守り、一歩たりともロシア人を日本の土地に上がらせない決心である。ここでも政治の先、つまり外交交渉の先は戦争でした。支那事変・大東亜戦争も必死の外交交渉の結果が、戦争ということではやはり同じでした。

 日本のお陰で満州は清に戻され、日本は清から改めて遼東半島の租借権を得ます。イギリスも租借地を得ていました。ロシアが極東から去り、支那大陸の鉄道利権の争いは整理されたのですが、今度は新たに米国が鉄道利権をめぐる争いに参加してきました。米国と国際連盟は、歩調を合わせて日本批難の宣伝を始めます。そして今度は、ソ連が極東に現れます。

ソ連は、孫文蒋介石と手を結びました。中国共産党支部として日本共産党も作られました。1921年ワシントン会議の間に、いつの間にか外蒙古を独立させて、共和国をつくってしまいました。ソ連は、支那を世界革命の踏み台として利用しようとしていたのです。後で蒋介石が気づいたときは、支那全土でソビエト共和国が密かに作られていました。蒋介石は必至に毛沢東共産軍を攻撃して、壊滅寸前まで追い込みました。

しかし、西安事件共産主義者の罠にはまり、抗日戦の準備をしかたなく始めます。戦争に向けて兵器廠、製鉄所、飛行機工場、軍需品の製造工場の計画が進められました。このとき支那が世界最大の武器市場になったのです。次第に支那大陸のプレイヤーは、日本、アメリカ、ソ連、担ぎ出された蒋介石と言うことになりました。

 満州事変、そして満州国建国と、欧米をあざやかに出しぬいた日本は、欧米諸国の嫉妬と恨みを買い、いつの間にか世界の敵となっていたのです。国家のていをなしていなかった蒋介石政府が、統一国家中華民国として国際連盟に加盟できたのも、共産主義ソ連が加盟できたのも、欧米列強の反日のための都合でした。欧州諸国の反日宣伝と外交は、満州人の満州国を認めず、米国と日本を対決させて、漁夫の利を得ることでした。

 米国民は、やがて対日戦争になるだろうと思い込まされ、日本への敵愾心を植え付けられ、かつて世界中が反ドイツに向かったのと同じ方法で、反日の世論が世界に形成されていきました。大陸から日本を追い出したい、欧米、そしてシナを革命政権にしたいソ連、米ソを利用して、日本を追い出したい蒋介石は、互いに利害が一致するようになっていきました。日本は満州事変後、欧米の日本批判に対して必死の外交努力をしました。

当時60に満たない独立国のうち、満州国を承認した国は、バチカンなど20か国にもなったのです。日米間で戦争が起これば、世界恐慌の問題や、第一次世界大戦の戦時国債の問題も解決し、米国が極東貿易を中止すれば、日本は身動きができなくなり、日本の満洲、東南アジアへの進出を食い止めることができる。そうなれば欧州は再びシナ大陸市場で優勢を確保できる。欧州の得られる利益は計り知れない。

 このような国際情勢の中で、日本は最後に、日露戦争で地を流した、満鉄の利権を放棄するまで譲歩しました。しかし、蒋介石との和平交渉は何度も潰されます。アメリカも、日本との貿易を段階的に制限していき、シナ大陸から撤兵し、汪兆銘政府ではなく、蒋介石政府を承認せよとまで言ってきたのです。ハルノートです。わが国は、エネルギーぶそくで工場の操業が止まり、大量の失業者が生まれ、その結果大勢の餓死者が出たでしょう。

もはや国際連盟を脱退しようと、我慢を重ねて連盟に残ろうと、欧米が望む戦争というゴールは変わらなかったでしょう。すでにこのとき欧米諸国は、日米戦争を前提として、外交政策を決めはじめていたのです。それでは現在はどうでしょうか。今各国は国際情勢を見ながら対中政策を決めているようです。中国は今後どうふるまうのでしょうか。それでは終わります。

 

「最門司さくらの憂国日記」【手奇塾】南シナ海波高シ 決断は迅速・正確に

 

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 最門司さくらの憂国日記 今回は南シナ海波高しです。

 中国は、今台湾や日本の尖閣諸島を勝手に自国の領土にしてしまっています。沖縄県さえも中国の領土だと最近言い始めています。そして沖縄県の独立を密かにけしかけているようです。かつて中国は同じように、満州国チベット王国、東トルキスタン南モンゴルを自国の領土にしてしまった過去があります。そして今、ブルネイやマレーシア、フィリピン、台湾、ヴェトナムが、南シナ海で中国と島の領有権で対立しています。また、これらの国の漁船が中国公船に衝突されることが最近何度も発生し、緊張が高まっています。とうとうフィリピンは、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所に訴え、2016年、裁判所は、中国の主張を認めない判断を下しました。ところが、中国はこの裁判所の判断を紙屑といって一蹴してしまいました。日露戦争で日本は、イギリスの良質な石炭を輸入して軍艦の速度を早めました。大砲の砲身も訓練で摩耗したので、同じくイギリスから輸入したほどです。もちろん軍艦もイギリスに発注して作ってもらいました。日英同盟を結んでいたからできたことです。戦争になった時、応援してくれる国があるということはやはり重要です。もしイギリスが助けてくれなかったら、日露戦争で日本は、ロシアに勝てたでしょうか。支那事変、大東亜戦争では、軍隊が使うエネルギーは石炭から石油にかわりました。石油が無いと軍艦も飛行機も動きません。日本は、ほとんど石油が取れませんので輸入するしかありません。実はアメリカから石油を輸入していたのです。ですから日英同盟と同じように日米同盟がその時あったならば、大東亜戦争は負けずに済んだかもしれません。しかし、肝心な石油を輸入しているアメリカは、敵国になったのです。本来最も仲良くすべき相手だったのですが、そうはさせてもらえませんでした。しかたなくドイツ、イタリアと三国同盟を結びましたが、石油をくれたわけではなく、役に立ちませんでした。ここから得られる教訓は、いざというとき日本を必ず助けてくれる同盟国を持たねばならないということです。もちろん日本もいざというときは、相手の同盟国を助けなければいけません。当たり前ですが、戦争は避けられるものであれば避けねばなりません。しかし、実際には戦争を避けようとする努力が少しづつ潰されていき、最後はどうにもならなくなって戦争に突入していきます。日清戦争日露戦争支那事変や大東亜戦争の時も日本政府は、当然ですが、次々と戦争回避の政策を打ちますが、一向に改善せず、だんだんと戦争に近づいて行ってしまいました。国力が強く、過大な要求を突きつける国と、国力が弱いのでなんとか戦争を避けたいという国の国際舞台でのせめぎ合いと言ってもよいでしょう。一国では力不足の時は、お互いの国をみんなで守り合おうと言うことになります。これが集団的自衛権です。ただ日本だけは、他の国々と違って、憲法や法律の制限があり、自衛隊は何でもできるわけではありません。まず、国際法に従わなければなりません。さらに最高司令官の命令がなければ自衛隊は動けません。最高司令官は、法律が認めている範囲内でしか命令ができません。自衛隊法や周辺事態法などです。最高司令官が自衛隊に、武力行使を命令する時は、3つの原則に従います。一つは日本に向けて武力攻撃が発生したときです。二つ目は他国が攻撃されたときに、同時に日本も存立の危機となる場合です。三つめは、武力行使は必要最小限度にとどめなければなりません。なぜかすっきりしませんが、日本国憲法が障害になっているからです。もちろん最高司令官とはわが国の首相です。なかなか決断できない首相では、反撃を始めた時にはすでに手遅れで、いたずらに自衛隊の損害が、大きくなるばかりという、最悪の場合も考えられます。最近では、アフガニスタン邦人救出自衛隊機の派遣です。決断が遅く、1日の差で作戦は成功しませんでした。私達は選挙を通じて間接的にですが、有事の際に正しく、早く決断できる総理大臣を、選ぶことが大事ですね。尖閣諸島先島諸島がC国に攻撃されたとき、自衛隊は直ちに必要最小限度の反撃をします。台湾が攻撃をされた場合、日本の存立危機ですので自衛隊は反撃ができますが、日本だけではなく、同盟国のアメリカやその他の国々と一緒に行動するでしょう。令和3年8月、中国政府は、南シナ海の中の、領土領海と見なす130万平方マイルの海域に入る前に、すべての外国船にコース、コールサイン、貨物内容を報告することを義務付けるという新しい法律を一方的に発表しました。これは公海の自由航行の原則という国際法に違反する行為です。中国は、何世紀も前から領有権があると主張して、南シナ海サンゴ礁を破壊し、軍事基地を建設しました。これをオバマ大統領は、何もせず見ていただけでした。昔の大日本帝国でしたら毅然と対抗していたでしょう。もしこの中国の要求に従へば、南シナ海の公海が中国の主権が及ぶ海域であると認めることになってしまいます。そうなれば中国は気に入らない国の船舶に対し航行を禁止したり、危害を加えるかもしれません。それを防ぐために今、日本、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、インドなどが共同で、軍艦を南シナ海に派遣しています。イギリスもフランスも南太平洋にいまだに海外領土を持っているからかもしれません。アメリカの軍艦は時々、中国が主権を主張する海域の中を航行しています。これを航行の自由作戦と言っています。また初めにお話ししましたように中国は台湾を自国領と主張して、いま台湾に軍事的圧力を猛烈にかけています。さらにパイナップルの輸入を禁止したり、ワクチンの輸入を邪魔したりもしています。これに対しアメリカは、台湾を守るため、今までは遠慮していましたが、トランプ大統領の時、台湾に強力な武器の販売を始めました。地図をみますと、南シナ海を自国の内海にして、潜水艦を潜ませたい中国にとって、台湾、日本の先島諸島尖閣諸島、沖縄はとても邪魔なのです。つまり台湾と日本国そのものが邪魔と言ってもいいかもしれません。中国が他国を自国領にする手口はいつも同じです。初めに漢民族の移民を大量に送り込みます。人口構成で漢民族が上回ったところで、中国の自治区としてしまいます。次に言語を禁止し、文化伝統を禁止、中国化していきます。これを中国語で洗民といいます。今世界中で大問題になっているチベット人ウイグル人、モンゴル人に対する弾圧がこれです。今頃問題になるのは60年遅いのです。南シナ海に中国の主権が確立してしまうと、石油の最短輸入ルートが断たれ、反原発でエネルギー不足となり、再生エネルギーでは不足を全く補えず、最後は台湾も日本も中国の自治区にされる可能性が高まります。日本人でありながらごく一部の人々が、集団的自衛権特定秘密保護法原子力発電に反対したり、女系天皇女性宮家創設に賛成する理由は、日本を将来中国の自治区にし易くするためと考えることもできるのではないでしょうか。それでは終わります。

キャンセルされた歴史を取り戻す」”これでも侵略か” 満州事変と満州国建国4

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みなさん、こんにちは。キャンセルされた歴史をとりもどす、これでも侵略か。今回は、満洲事変と満州国建国4、最終回です。米軍の引揚と同時にタリバンが侵入し、アフガニスタン政府は崩壊しました。同じように、日本の停戦と前後して、ソ連軍、毛沢東共産軍、蒋介石国民党軍が満州国を侵略、満洲国は、消滅しました。このとき満洲国在住の邦人の運命に危機が迫ります。8月9日ソ連軍は、日ソ中立条約を破り、満州国に武力侵攻、在留邦人の苦難と悲劇が始まります。8月14日、旧満州のかっこんびょう(現在の中国内モンゴル自治区に向けて避難する、日本人1千数百人に向けて、ソ連軍の戦車隊が機銃掃射をしました。生き残ったひとは僅か百数十名という、残酷きわまりない事件が起きました。彼らを護る関東軍はすでにいなかったといいます。軍は命令で動きますが、軍上層部は誰一人、邦人の安否を気にかけなかったのでしょうか。アフガニスタンの首都カブールが、タリバンによって占拠されたとき、邦人を置いて逃げた日本大使館員とまったく同じように思えてしまいます。関東軍の本来の任務は、満洲在住の邦人保護でした。しかしその時満州にいた関東軍は、精鋭部隊が南方に移り、士気も戦力も著しく落ちていたようです。満洲にいた関東軍は、8月15日の降伏命令の玉音放送に従い、ソ連軍や共産軍に武器を引き渡してしまいます。その結果、ソ連軍による違法な日本兵のシベリヤ連行、強制労働や、残された邦人が自力で脱出する際、先ほどのような数々の悲劇が起こりました。工業の発展した満洲国を占領すれば、なんとかなると考えた毛沢東蒋介石。またソ連軍まで、製鉄所などの機械設備を強奪したのでした。毛沢東共産軍は、満州国の首都、新京の外側に陣取り、国民党軍は新京内に陣取る。どちらからも物資が入らず、日本人の引揚者の子供たちは、多くが餓死してしまいます。日本人を餓死させるため、共産軍の八路軍はわざと門を閉ざしたのです。この恨みは、日本人の記憶に永久に残ると言われています。遠藤誉氏がお書きになった「チャーズは、この時日本人が中国人から受けた、残酷な仕打ちを明らかにしています。また満洲人も、国を失い、その後中共に支配され、満州語を禁止され、洗民され、同化政策の対象とされました。今のチベットウイグル南モンゴルと同じです。このような悲惨な状況の中、降伏せず、武器を捨てず、邦人保護という本来の任務に忠実に従った関東軍もいたのです。軍の食料を分け与え、邦人を列車に乗せて送り出すまで、ソ連軍機械化部隊と戦闘を続けた、駐蒙軍司令官、根本中将麾下2千数百名の兵士です。そして毛沢東共産軍と闘いながら、邦人270名とともに北京方面に退却した、満洲の南端にいた下道大尉の部隊です。この詳細についてはユーチューブ「最門司桜の憂国日記をご覧ください。URLが、説明欄にあります。今から思えば、日本が2つの間違いを犯したのではないでしょうか。一つは、満州の権益を独り占めにし、外国を排除したことでしょう。満洲への投資も日本だけではなく、英米を引き込んで仲良く一緒に投資すべきだったのではないでしょうか。2つ目の失敗は、コミンテルンと張学良を甘く見て、西安事件を防げなかったことです。せっかくタンクー停戦協定締結により、満洲国の国境が定まり、中国側は満洲国の存在を黙認したのです。その後蒋介石は、毛沢東共産軍を壊滅寸前まで追い込んでいったのです。日本は安全保障上、満洲国に隣接する、華北五省を国民政府から独立させる工作を進めたのですが、このようなことをせずに、日本軍も、蒋介石軍に軍事顧問団を送るなど、共産党征伐に協力していたならば、歴史は変わっていたかもしれません。日本がこのとき賢く振る舞い、英米と協調していたら、そして英米も賢く振る舞い、日本と協調していたら、毛沢東共産軍は壊滅し、シナ事変も大東亜戦争もなく、チャーズの地獄もなく、満州国満州人も健在で、ウイグルチベット、モンゴルも平和で、原爆も落ちなかったはずです。日本は、侵略をした悪い国という、ある国々にとって、都合のよい政治宣伝を見抜き、本当の歴史を学んでこそ、日本の未来に、希望が湧いてくるのではないでしょうか。私たちの次の世代に、チャーズのような地獄の苦しみを、再び経験させないためにも、満州国建国と崩壊の歴史を、教訓としたいものです。みなさん、自由社の歴史教科書を読んでみてはいかがでしょうか。それではみなさん、さようなら。

 

「キャンセルされた歴史をとりもどす」これでも侵略か 満州事変と満州国建国3

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 キャンセルされた歴史を取り戻す、これでも侵略か満州事変と満州国建国3です。

  1933(昭和8)年5月、日本は、蒋介石政府と「塘沽(タンクー)停戦協定」を締結し、満州事変を決着することになりました。「塘沽停戦協定」締結後、80万人の国民政府軍は、15万人の共産軍を包囲殲滅する作戦に乗り出し、共産軍はそれまで築いてきた各地のソビエト地区を放棄して延安に逃れます。これに慌てたのがコミンテルンでしょう。満洲は、日本の3倍以上の広さです。当たり前ですが、満州国の軍隊や行政、警察組織は、満洲国民の協力があって初めて機能します。これからお見せする写真は、ホームページの「満洲写真館」から管理人様の許可を得て使用しています。満洲の写真だけではなく、管理人の方が満洲出身の方で説明文がとても正確です。例えば日本人の満洲移民について、教科書に書かれているような、農業移民だけではなく、幅広い業種でおこなわれていたことが分かります。また、農業移民は失敗するケースも多くあったこともわかります。生活が安定するまでに、匪賊に襲われたり、幼い命を肺炎で失うなど、移民の苦労がよくわかります。満洲国がどのように発展していったのか、満洲国総務長官だった星野直樹氏は、見果てぬ夢―満州国外史でこのように回顧されています。民生分野で特筆すべきは、新都市建設と既成都市の改造である。近代的な国土計画のもとで、日本人建設技師の人材を集めて、近代的な美しい都市が、満洲の広大な国土に次々と生まれていっ た。特に、新しい国都・新京現長春は、百万都市として建設を進められ、電気、上下水道を完備し、東洋で最初の水洗トイレも設けられ、豊かな緑に彩られた。また満鉄は沿線各都市に、満鉄病院、伝染病研究所、結核予防協会、保養院などを設け、僻地には巡回施療を行って、民衆の健康状態改善に大きく貢献した。さらに中央試験所、農事試験所を設立し、ここで開発された「改良大豆」は、全満洲に普及し、世界一の大豆輸出国として成長させる原動力となった。そのほか地質研究所、鉄道技術研究所、製鉄研究所などが、満洲の農・工・鉱業発展の牽引車となった。以上の国土開発、産業開発は、ほとんどすべて日本からの投資でなされた。たとえば1936年にまとめられた、第一次産業開発5カ年計画では、増産すべき分野として、電力、鉄鋼、石炭、アルミニウムから、飛行機、自動車まで挙げられているが、その投資総額は25億円で、同年の日本の一般会計歳出総額24億円を上回る額であった。日本は膨大な人材と技術と資本をつぎ込んで、満洲の発展に賭けたのであった。その間、満洲の状態は一変した。治安は完全に確保され、国内には一人の兵匪もいなくなった。農業国から立派な工業国となり、総生産額は倍増した。国民生活は目覚ましく向上した。東亜各地から集まってくる人は、数多く、3千万人であった人口は5千万人を超えるにいたった。省略します。生まれ出た満洲国を、ひとり主導的地位に至った日本人のみならず、ひろく東亜諸民族が力を合わせて開発、発展せしめ、その恵福を、ひろく等しく各民族の間に分かち、ここに新たなる楽天地をつくりあげようと、日本の若き人々は進んで満洲国に集まってきた。省略します。生命わずか13年、満洲国の建設はついに見果てぬ夢に終わった。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する。以上のように満洲国総務長官だった星野直樹氏は述べられています。その結果、大豆の生産は5倍、出炭は14倍、貿易は6倍となります。これの何がいけないのでしょうか。中国への投資は良くて、満洲への投資は悪いのですか? それでは満州事変と満州国建国その3を終わります。さようなら。