手奇塾のブログ

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第13回 敗戦と東京裁判史観からの脱却 後編

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東京裁判史観ということばを、はじめて使われたのは、東京大学名誉教授の小堀けいいちろう先生といわれています。平和に対する罪と人道に対する罪は、ポツダム宣言が発せられたときにはなかった、明らかに事後法でした。後からつくった法律でひとを裁くことができないのは、近代法の大原則です。これだけで、東京裁判は、法律を無視した、裁判とはいえない裁判だったということができるでしょう。

敗戦後76年もたった現在でも、なぜ東京裁判をわが国政府は、完全に否定することができないのでしょうか。これは外務省のホームページです。「東京裁判は、戦後連合国が、日本人の重大戦争犯罪人を裁くために、設置された裁判で、28名が平和に対するつみや、人道に対するつみ等により起訴され、病死または免訴となった者以外の25名が、有罪判決を受けたものです。

この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはないと考えています。」これがわが国政府の公式見解です。重大戦争犯罪人とは敵国側の言い分ですが、そのまま使用しているのです。わずかな救いは、様々な議論があると言う文言をいれていることでしょうか。

嘗て国会で、日本は、極東軍事裁判所の判決、その他、各連合国の軍事裁判所による裁判を受諾したのか、あるいは「諸判決・裁判の効果を受諾したのか。もし判決、裁判の効果を受諾したと解釈すれば、東京裁判の内容や正当性については受け入れないが、その判決、裁判の効果については受け入れたという解釈になるが、どちらかという質問がされました。

これに対する平成18年6月16日の、政府見解は、我が国は、裁判を受諾しているというものでした。外務省のホームページもこれにもとづいて書かれているわけです。したがって東京裁判の正当性を否定することは、76年たっても政府はまだできないのです。これが英米、中ソが日本にはめた足枷です。繰り返しますが、戦後日本のすべてがここから組み立てられているわけです。日本国憲法もその一つです。

南京事件に関する外務省のホームページの「あったことは否定できないと考えています。と書かれている本当の意味もこれに基づいていることが分かります。東京裁判では、松井石根大将の責任を問うために作られた南京事件で、松井大将は有罪となり絞首刑になりました。東京裁判を否定すると松井大将は冤罪ということになるからです。また、GHQが草案を作った日本国憲法も、東京裁判の副産物と言ってよいでしょう。

現在国家公務員や警察職員などは、この日本国憲法を遵守しますという宣誓書に、署名捺印しなければならないと法律で決められています。それでは永久に東京裁判を否定し、東京裁判史観を政府も国民も脱却することはできないのでしょうか。日本政府も国民も、指をくわえて、ただ76年間穏忍自重していたわけではありません。

サンフランシスコ講和条約発効の昭和27年、1952年、4月28日の独立を待って、翌年国会は、戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議赦免要求を、共産党を含む全会一致で可決し、東条もと首相の時、外務大臣だった重光葵は、A級戦犯とされましたが、後に衆議院議員選挙に当選し、国連で演説しています。東条英機の奥様、かつ子夫人は、その後ももと首相がおられた、用賀の官舎にお住まいになられ、恩給も支給されていました

当時の国会も政府も、赦免できなくてもできるだけのことはしていたようです。また、平成27年2015年、8月14日に閣議決定を経て発表された、安倍談話では、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりませんと決意を表明し、あの戦争に対する贖罪意識を、わが国民は捨て去ることにしました。

このように日本国憲法や、その他戦後日本にはめられた足枷は、牛歩の歩みですが、少しづつ外されていると考えることもできるのではないでしょうか。また、76年経っても成立できない、自主憲法の問題もありますが、現憲法を改正するやりかたで、前進しようとする機運が高まっていることは、世論調査でもあきらかになっています。

私達の父、祖父、曾祖父が戦った大東亜戦争を、胸を張って子や孫たちに語り継いでいきたいものです。それでは終わります。みなさん、さようなら。